素面
何か文章を書こうとすると、それぞれの文字がそれぞれの意味を背負って、頭の中でぶつかり合い刺激する。それはあまりにも乱雑で、雲のようにふわふわし、いつまでも変化し続ける。文章とは頭の中の乱雑な言葉たちを規則正しく並べることであり、そのエントロピーは頭の中の状態と比べてとても低い状態にある。
エントロピーとは乱雑さのことであり、それが高いほど整列されたきれいな状態であると言える。たとえば本棚に「僕のヒーローアカデミア」が1巻から19巻まで並べられているのだが、それらが1、5、3、7、9…みたいにでたらめに並べられているときエントロピーが高いと言える。文章も同じように、前後の因果関係が保たれるようにある程度の規則性をもって整列させる。
整列された言葉は純粋さを失う。それらはノイズを多く含むようになる。この「ノイズ」というのは誤字や脱字などのことではなく、言葉を文章にするにあたって生じる。頭の中にもともとある理想的な概念にモザイクがつくような感じのこと。
僕が自分の手を見て「手」と言う前、頭の中にはノイズのない理想的な「手」の映像が映し出されているわけだが、それを言葉や文字に起こしてしまうとそれは僕の手じゃなくなる。僕が言い放った「手」は「て」であり、空気を揺らす音となって各々の耳に届き、それぞれの解釈で僕の手を想像する。あなたは今「手」という漢字を見ているし、それによって想像される手はきっと僕の手ではない、何か違う手だ。たとえあなたが僕の手を見たことがあって僕の手を頭の中で想像したとしても、それはあなたの目で見た「手」であって、僕の目で見た手ではない。
言葉や文にする前、そこにはなんの濁りもない純粋な概念が頭の中に蠢いている。それは言葉にすると必ず汚れてしまうが、その汚れを最小限に抑える技術が「詩」であるのかもしれない。
もし、君の頭の中に「風が木を揺らす」という映像がちらついたとする。理想的な詩は、頭の中に浮かんだその映像を全世界の人類の頭の中で、全く同じ映像として再生させる。それは言葉の通り、「全く同じ」映像だ。
そういった純粋な言葉が出るのは夜か酒を飲んだ後のとき。夜の空気はアルコールが含まれているのかもしれないと考えたことが多々ある。
酔っ払いは純粋な言葉を吐き出す。
それはトイレではなく、紙の上か電子機器の中。そしてすべて吐き出すと素面になる。
そして、今まさに素面になっている。
堅苦しいことを書こうとしてここまでたどり着いたが、なんか、はい…まだ文章を書くのかと思うと面倒くさくなってきた。
さあ、君ならどう生きる?
僕はと言えば、取り敢えずこの中途半端な文章をきれいに終わらせるためにいろいろと思考しているわけだが、せっかく「詩」という題材で書いているんだから、詩で終わらせたい感じはある。
でも、残念ながら今の僕は素面です。
素面。
「素(もと)」の「面(つら)」になってます。
読んで字の如く、僕しか知らない本当の顔です。
結局、カッコつけて書いたような詩は素面になったとき恥ずかしくなる傾向がある。あれ、じゃあ素面のときに書いた詩こそ本当の詩なのかもしれない。
あ〜、めっちゃ恥ずかしいやん!
僕が書いているやつだいたいお酒飲んだときに書いたやつだから、本当の詩ではない。
本当の詩を書く。
生活の中で、最も素面になれる時間を僕は知っている。
本当の詩を書く時間。
ごめん、恥ずかしいから言わせないで。
(あと、エントロピーの話は間違ってるかもしれないから、しっかり調べたあとで僕のことを貶してみてはいかがでしょうか)