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私が常々思っていること。

人は、
自分が「してあげたこと」は憶えているけれど
「してもらったこと」は忘れがち。

「されたこと」は憶えているけど
「したこと」は忘れている。

のではないかと思っています。

この場合、
「してあげたこと」と「してもらったこと」は、
主に良いことで

「されたこと」と「したこと」は、
その逆の場合を言っているのですけれど。

たとえば、
「自分があの人に何かをしてあげた」、

それは
「美味しいモノをあげた」とか
「困っているときに助けてあげた」とか。

そういうとき、
だいたい憶えている。

あのとき、
「私は○○さんを助けてあげたよね」
「親切にしてあげたよね」
「誕生日プレゼントあげたよね」とか。

なのに、
「心が救われるような声をかけてもらったこと」
「優しくしてもらったこと」
「誕生日のお祝いしてもらったこと」とか、
忘れてしまう。

なんか、
自分ひとりで大きくなったみたいな、
成長したような、
全然世話になってませんよね的な態度をとる。

逆に、
誰かにヤなことを「されたこと」は憶えている。

「イジワルされた」
「無視された」
「ヤなことを言われた」。

「もう、一生忘れない」
「死ぬまで恨んでやる」みたいな。

なのに、
一方で、
あなたは忘れているかもだけれど

あなたこそ、結構
「ひどいこと言ったよね」
「冷たくしたよね」
「無視したよね」

と思うのだけれど、

自分がしたことなんて、全然覚えていない。

そんなことが、
往々にしてあるのではないかと思います。

そして、
私たちは、
お世話になった人、
助けてくれた人、に対して

「恩返し」はできないかもしれないけれど
「恩送り」はできるのではないかと思うし、

あのとき声をかけてくれた人、
あのとき救ってくれた人に、

モノや何かを返すことができなかったとしても
御礼ぐらいは言えるのでは
感謝の気持ちぐらいは伝えられるのではないかと思う。

「いつか」御礼を言おうと思っていた、
そのいつかは来ないかもしれない。

「もっと」成長してから
「もっと」お金がたまってから
ちゃんとお返ししたいと思った時に
もう、その人はいないかもしれない。

だから、
「ありがとう」や「ごめんなさい」や
言う必要があることは、
先送りにせずに、後回しにせずに、
言わなきゃ、って思う。

こういうのって、
時間があるからできるのでもないし、
お金があるからやるのでもなくて、

時間がない人こそやっていると思うし、
お金がなくても出来ることだと思う。

こんなことを書いていると、
ほんとに年寄りのボヤキみたいだけれど、
私はこういうことを大切にしたいと思う。

「スーパーボランティア」で有名になった方が
以前、テレビのインタビューで話していたこと。

「かけた恩は水に流せ、受けた恩は石に刻め」

「懸情流水 受恩刻石(刻石流水)」は、仏教経典が出典と言われます。

なぜ、ボランティアをしているのかと問われ、
若いときにとてもお世話になった人がいて
その人に何かを返すことはできなかったけれど
今、自分ができることをしていきたい。

そういったニュアンスのことを言われていたと思います。

「もちろん対価や物品、飲食、これらは一切いただきません。
決して“してやる”ではなく、“させていただく”の気持ちで私は臨んでいます」

被災地から届く、御礼の手紙に涙を流す姿。

なんかもう、たまらなく素敵だと思いました。

してあげたことに見返りを期待する、
してもらったことに感謝を忘れる、
そんな人にはならないようにしよう。

そして、いつのときでも
できうることをできうる場所でしよう、
改めてそんなことを思います。

\あなたが忘れている「ありがとう」や「ごめんなさい」はありませんか?/

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