音邑音音 (おとむら ねおん)otomura neon
いつも大きくて立派な扉ばかり見せられてきたように思う。 深く考えることなく、大きくて立派な扉ばかり追いかけてきたように思う。 だけどいつもうまく開けられるわけじゃない。 ある日、見立たぬ物陰の通用門に気づく。 扉は軽く、ふれただけで開く。 その先に同じものがあるかどうかはわからない。 だけど、中には入れる。 あと戻りもできるから、試しに入ってみたら……。 そんな思いで描いた「絵のことば」。
楽譜を図解で理解する、楽譜を読むのが苦手な方のためのピアノ・レッスンです。 独学でも「必ず弾ける!」ようになります。 敷居の低いピアノで、あなたもピアノを弾いてみませんか?
【更新情報】2021年9月6日、第2刷をリリース。 お買い求めいただいた方は第2刷にバージョンアップしていただけます。 これに伴い、第1刷の販売は終了いたしました。 函館に旅をするためのものではありません。 函館の景色に、人に、出来事に、心がかすめたことがある方にこびりついた思いの軌跡、そんなはがすにはがせない瘡蓋みたいな燻りを、遠くに置き去りにしてきたみたいになっている思い出を、掘り起こし、今いちど手のひらに広げてみて、愛で、味わってもらえたらいいなあ、という思い
社会を変えるのは、肉じゃがを調理途中に突如カレーに変更するようにはいかない。いくら機転を効かせたって、相手が悪すぎる。煩雑な手順を踏まなきゃならならないし、根回しに要する時間と人脈も必要になってくる。反対勢力の出現で遠回りを強いられることもあるし、へそ曲りに行く手を阻まれれば頓挫するし。これがルーティンで時間勝負の料理なら、煮込みすぎてくたくたのルー状態になっちゃうところだ。 仕事は大きくなればなるほど、成すのに手間も時間もかかるようになる。だから短気に臨んではいけな
書店員のとき、本は時代を映す鏡だってた。街にいてもピンと来なかった社会の流れが、売れる本の動向で情報が川上から川下に向けて流れ始めるんだもの。 編集してたとき、本は賭博のサイコロだった。3冊のうち1冊のヒットを求められ、さあどの本が当たるかお慰み、と気が気じゃなかった。3冊とも売れなければ賭けは失敗、全財産ならぬ編集の座も取り上げられる。二重のどきどきを常に背負わされる毎日だった。 貸し出す仕事に就いたとき、本はやっと安堵と希望の星となる。 本に限ったことではないけ
努力が報われない。それとも努力はもともと報われないようにできているものなのかな。頑張れどがんばれど、伸ばした手が届くべきところに届かない。 こんなことってある? 別に高望みしているわけじゃない。10人のうち9人が座れる椅子取りゲームで、いっつも10人目の着席者。いや、9個の椅子は取られたあとだから、座るべき椅子が残っちゃいない、だから着席できるわけじゃない。そして僕はそこで立ち尽くし、途方に暮れることになる。決して高望みではないでしょう? なのに、9個目の椅子にさえ
通勤時間を含めた労働時間が1日14時間を超えると、書くための頭が働かなくなることが判明した。これは由々しき問題だ。毎日続けば週20時間の残業で、世間では過労領域に突入する警告レベルの危機である。 ここで文章によるグラフ化でその内実をお伝えしよう。1日24時間のうち14時間が仕事関連で費やされる。睡眠時間は6時間に満たないがざっくり6時間として計算する。朝食と夕食に費やされるのが、調理時間を含め短く見積もって1時間30分。着替えとグルーミングならびに洗面を合わせて30分。入
世の中、現金比率が減って、行くとこ行くとこ、どこもかしこもポイント制になっちゃって。お金がゲームの点数みたいに思えてくる。 ってな具合にね。 価値の保存が物々交換の時代をぶっ壊し現金社会を構築していったけど、価値観の変化が保存する価値の質量を変えている現代。 これからもいろんなものが変わっていくよ。現金輸送車は走らなくなり、銀行強盗は現金を強奪できなくなる。銀行員も困っちゃう。「札束入れろ」ってカラのバッグを出されても、デジタルキャッシュでいいですか? なんて
仕事でなければ行かないところがある。横浜だとか新木場だとか、休みの貴重な時間をそこに費やすくらいなら、ほかに行くべき場所がある。十石だとか夜叉神だとかに。 基本、都心のちんまり小綺麗にまとまった暮らしから離れたいのだ。便利で繊細でスマートだけれど、都会の暮らしはよくできたトヨタ車みたいで、どこか物足りなさを感じてしまう。人は真っ先に幕の内弁当を夢想しがちだが、物産展なんかで心を奪われるのは、平準から逸脱した尖った弁当であるように、休みの日には乾いた瘡蓋を剥がさずにはいら
颯爽と生きる。 いや、颯爽とした生き方をしたいと常に願っている。 理想はいつだって胸の内にある。 だけど少し追いつかない。高過ぎない理想は、ほどよい苛立ちと実現の可能性を仄めかしてくる。 ハリのある日々を過ごすコツ。 無理はしない。無茶もしない。 例外もある。 冷静沈着なはずなのに、猫じゃらしとチュールには目の色が変わる。 それはそれでよし、としている。 自己都合はいつだって最優先事項だ。
「雨の日は嫌いだけど、濡れるのがイヤだからこんな日は出かけないだろうってタカをくくられるのがもっとイヤなんだ。舐めんなよ! 世の中には長靴を履いてる猫だっている」 社会は他人をシンプルに定義しようとする傾向があるけれど、人心は(猫心も)傍目で見るよりずっと複雑。驕れば道を見誤る。
早起きしなきゃならない前の夜は、よく眠れない。仕事なら、遅刻できないんだもの。遠足なら、置いてかれちまうじゃないか。緊張が気を急かす。急いた気持ちは睡眠中枢を針でつついて、覚醒が寝落ちを蹴散らかす。 起床時間を逸すれば、目覚めの意味は地に落ちる。起きても、間に合わない。起床がお昼、なんてことには是が非でも陥ってはならない。朝ご飯はとっくに片付けられているし、温泉ならお風呂のお湯が清掃ですっかり抜かれてる。 気を抜いてはいけない。明日の朝は寝坊できない。 眠らねば、と
死とは、再び開くと信じて疑わない瞬きを最後に、二度と瞼が開かなくなった瞬間に訪れる。 なんで知っているのかって? だって、この瞼、もう二度と開かないんだもの。意思は? ある。 ネルソン・マンデラが、死んでも墓から投票に行くと言っていたように、死からひょっこりこの世にお邪魔することができるんだ、実は。 気味悪がっちゃいけない。キミもアナタも、この状況に身を置いたらわかるよ。気味悪がるほうがかえって不気味な思考だってことにも合点がいくはずだ。 マンデラじゃないから僕は
昭和回帰がちょっとしたブームになって久しい。終わってしまったものへのノスタルジックとはちょっと違う。不透明な行き先に道を見失ってしまっているのかなあ。近過去を辿ることで、もやの立ち込める未来への壁をぶち破ろうとしているのかもしれない。いや、それとも少し違う気がする。 味わい。生きることで得られるテイストみたいなものを追いかけているというのが、なんとなく近い解答のような気がする。 たしかに昭和は、令和にはない、出汁の効いた和製スパイスの味がする。 規制が緩く、どん
今日は傘のイメージが浮かんだ。晴れているし、予報も心配ないと言ったけど、念の為の折り畳み。その一瞬のお告げのような閃きが功を奏することがある。 「その力、予知能力」とその人は言った。 信号のない交差点を通過する時、車の影からジャジャジャジャーンと『ひょっこり男』が現れるやもしれぬ。そんな直感が降りてきて、だから横断歩道手前で止まれるほどまでスピードを落としてみたんだよ。するとどうだろう、そこに現物が現れた。 驚かないこちらの反応に、ひょっこり男はおもしろくない。不
人生に迷いはつきものさ。 ふたつのうちひとつ選べば、後悔がもれなくひとつついてくる。 このようにして人生には後悔が積み上がっていくんだよ。
三寒四温でゆるんだ冬が春になり、こんどは三涼四暑で今年の夏が生まれようとしている。予報では昨年にも増して酷暑が猛威をふるうそうだが、先のことを今病んでも無用な心労が嵩むだけ。考えまい、先のことなど。 トム・シュルマンの『いまを生きる』は35年前に公開されたアカデミー脚本賞を受賞した映画。公開された1989年、日本は昭和が平成に変わった年である。ふたつの間に因果関係などあるわけないのに、元号の推移が「今日の生き方」の有り様を変えた転換点と重なる。ちょうどあの頃、景気は踊
たかが仕事。精魂込めて仕事で結果を出したって、手放しで歓喜するのは会社のほうで、労働者は「金一封」と「雀の涙の昇給」でお茶を濁されるだけ。会社はアタシを生涯にわたって喜ばせてくれはくれない。 アタシはオイシイところを搾り取られた出涸らしのお茶にはなりたかない。アタシはアタシ。オイシイところはアタシが自分取り、アタシ満足の道を行く。 されど仕事。最善を尽くしたって結果を出せないこともあるのに、ましてや手を抜いてしまったら、社会での存在意義はぷしゅうと風船から空気が抜ける