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見つからない正解を求め、存在しない間違いを怖れて


苦手なことがあります。

それは、仕事のグループチャット内で発言すること。


元々仕事中は仕事をする自分になりきっている感覚が強く、普段の自分が解放度100%とするならば、仕事モードの自分は解放度30%+俳優度70%といった感じです。

解放度100%の自分でいると、大抵の場合周りの人はわたしのことを天然などと呼びます。変わってる、ちょっとズレてる、発想がおかしい、と言われることもあります。

プライベートの場ならそこまで困らないし、そこが面白いと好いてくれる友人もいます。けれど、仕事となると話は別。自分を解放しきらないように気をつける癖がついています。


最近、COTEN RADIOのPodcastで統計学から平均値を求めたケトレーという人の話を聴きましたが、そこから生まれた考え方や仕組みは沢山あるなと考えています。

普通ってなに?と、思春期さながらに疑問を抱きながらも、社会で設定されている普通の枠からはみ出さないように、平均値から遠ざからないように、と必死な自分がいるのは事実です。


仕事のグループチャットでは度々議論が行われます。そこに自分の思いがあっても、わたしはなかなか発言が出来ません。ここではこんなに自由に思いを述べているのに。

文字は残る。だからこそ慎重になります。文字には抑揚がつけられない。並べたことばに表情や温度を持たせたり色を乗せたりすることが難しいからこそ、もの凄く考えます。

本当に述べたい思いがこの文章で伝わるのか、このグループの誰かを傷つけてしまう内容になっていないか、誤解を生むような文章になっていないか。

あまり対面でしっかり話したことのない人から届くビジネスの文章は、どうしても冷たい温度で脳内再生されがち。だから多くの人がいるこのチャットルームで指摘を受けたら、と考えると更に臆病になります。

そんなことをぐるぐると考えているうちにも、議論は進んでいるのです。そもそもわたしは述べたい思いをそんなに早くことばにまとめられないのに、考えている途中でまた新たな意見が飛んでくる。

よし、やっとこれで発言しようと思える文章が書けた頃には、もうすっかり遅い。鉄は熱いうちに打たなければならないのに、わたしのスピードはというと冷めながら味が染み込んでいく煮物のようです。

そうして後になって、対面もしくは電話で意見を伝え合えればスッキリする。いい加減時代に追いつけわたし、と思ってはいるのです。でもどうしても、抑揚も表情も温度も感じ取りにくいあの議論の場は苦手です。


わたしは、間違えることを極端に怖がっています。もっと言えば、間違えた自分を他人がどう思うのかが怖いのです。

数学のように説明をもって証明できるものならマルとバツで採点できる。けれど、意見には正解がなければ間違いもないはず。あるのはその時々に応じる最善だけ。最善に辿り着くために繰り広げるのが議論。それなのに、わたしはいつも間違えないように必死で、出来れば正解したいと思っている。それが正直な気持ちです。

思い返すと、小学生の頃のわたしは、クラスの中でも特に手を挙げて発表する生徒でした。正解だと確信したからではなく、何か答えのようなものを思いついたらすぐに手を挙げていました。手を挙げて、答えることが好きだった。それを楽しいと思っていた。間違えることがちっとも怖くなかったあの頃のわたしに会ってみたい、なんて思います。


これは、それについての解決策を見つけたよという話ではなく、ただ、やはりわたしはそれが苦手だなとつくづく思う今日この頃の日記です。

怖がらないで殻を破りたい。自分の中にある思いが最適な温度を持っている内に、ことばに変換して伝えたい。議論に参加して、全員で最善に辿り着きたい。

やっぱり今日のところはここに書くことしか出来ないけれど。成長、したいです。



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