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ALOL(アロール)とは、インドの師・OSHOから授けられた(1982年)、精神的な道…

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ALOL(アロール)とは、インドの師・OSHOから授けられた(1982年)、精神的な道における名前です。瞑想家であり、伝統禅に参ずる禅者でもあります。本名は角屋昌紀(かどやまさき)。PHILOS代表(造園デザイナー)。1958年生まれ。宮城県出身。芝浦工業大学(建築工学科)卒業。

最近の記事

定年退職した人が、お坊さんとなって、禅道場で短期間修行をし、住職の資格を取るという制度がある。お坊さんの人手不足を解消しようとするものらしい。 第二の人生における転職のつもりならあまり感心できない。社会人の務めを終えたならもう生活のことなど心配せずに、道の心一つで専心探求すべし。

    • mRNA被害は、「科学的」事実である以前に、「ただの」事実だ https://x.com/ALOL_KADOYA/status/1793500468674458079

      • 私のような者が書いたものでも、少数の方が(何の反応もないとしても)読んでくださっている気配を感じる 時々反応してくださる優しい方もおられる この拙い文章は、読む人に、もし何かのインスピレーションを引き起こしてくれるのならば、それで充分である 少数のフォロワーの方々に感謝いたします

        • 私のこのnoteは、人類意識の最も高い頂、すなわちブッダ(覚者)から、最も低い地底に棲むDSまでを網羅する ブッダについてだけ語るのでは片手落ちだ DSについても、DSと同じ地平から、そこに怒りをぶつけるだけでは、何の役に立たない DSとBuddhaのエンカウンターを私は見たい

        定年退職した人が、お坊さんとなって、禅道場で短期間修行をし、住職の資格を取るという制度がある。お坊さんの人手不足を解消しようとするものらしい。 第二の人生における転職のつもりならあまり感心できない。社会人の務めを終えたならもう生活のことなど心配せずに、道の心一つで専心探求すべし。

        • mRNA被害は、「科学的」事実である以前に、「ただの」事実だ https://x.com/ALOL_KADOYA/status/1793500468674458079

        • 私のような者が書いたものでも、少数の方が(何の反応もないとしても)読んでくださっている気配を感じる 時々反応してくださる優しい方もおられる この拙い文章は、読む人に、もし何かのインスピレーションを引き起こしてくれるのならば、それで充分である 少数のフォロワーの方々に感謝いたします

        • 私のこのnoteは、人類意識の最も高い頂、すなわちブッダ(覚者)から、最も低い地底に棲むDSまでを網羅する ブッダについてだけ語るのでは片手落ちだ DSについても、DSと同じ地平から、そこに怒りをぶつけるだけでは、何の役に立たない DSとBuddhaのエンカウンターを私は見たい

          今の(と言うより随分以前からの)日本政府は、もはや日本(人)のための政府ではない その実体は、反社会の、反日本の、そして反人類の勢力による日本侵略政府である そんなことは、かつて一度もなかった それで多くの人々は、そんなことがあるはずがないと思っている まずは現実から認識しよう

          今の(と言うより随分以前からの)日本政府は、もはや日本(人)のための政府ではない その実体は、反社会の、反日本の、そして反人類の勢力による日本侵略政府である そんなことは、かつて一度もなかった それで多くの人々は、そんなことがあるはずがないと思っている まずは現実から認識しよう

          科学的に証明されようがされまいが、 それによって人が大量に死んだなら、それは毒物だ 子供でも分かる単純なことだ 猫でさえも分かるのに違いない テレビしか見ていなくても、解るのではないか?

          科学的に証明されようがされまいが、 それによって人が大量に死んだなら、それは毒物だ 子供でも分かる単純なことだ 猫でさえも分かるのに違いない テレビしか見ていなくても、解るのではないか?

          一日に何度も救急車が出動しているのを見かける ある御老人とお話をした 「本当に多いですねえ」 「体調の悪い人が多いんだね」 「ワクチンのせいではないですか」 「いや、ワクチンではない」 テレビしか見ていない人は、こうなる 戦争が起こっているのに、そうとは認識できない そんな戦争だ

          一日に何度も救急車が出動しているのを見かける ある御老人とお話をした 「本当に多いですねえ」 「体調の悪い人が多いんだね」 「ワクチンのせいではないですか」 「いや、ワクチンではない」 テレビしか見ていない人は、こうなる 戦争が起こっているのに、そうとは認識できない そんな戦争だ

          何でも進歩するのが良いと考えられている 回向返照の退歩を学すべし この言葉を、全文明に対するアンチテーゼと受け取ったらどうだろう 猫も杓子も進歩進歩である より便利により速くより成功を求めて、その結果が、この薄っぺらな世界である 退歩とは、内面世界の真実に向かうベクトルのことだ

          何でも進歩するのが良いと考えられている 回向返照の退歩を学すべし この言葉を、全文明に対するアンチテーゼと受け取ったらどうだろう 猫も杓子も進歩進歩である より便利により速くより成功を求めて、その結果が、この薄っぺらな世界である 退歩とは、内面世界の真実に向かうベクトルのことだ

          道元禅師の言葉に 須らく回向返照の退歩を学すべし というのがある この退歩というのが、実に独創的で芸術的でさえあるように思われる 普通、退歩というと、悪い意味だ しかし、ここでの退歩は、起こっている心の事象に対して、外向きに出ていくのではなく、内体験へと退いてゆく 瞑想の核心だ

          道元禅師の言葉に 須らく回向返照の退歩を学すべし というのがある この退歩というのが、実に独創的で芸術的でさえあるように思われる 普通、退歩というと、悪い意味だ しかし、ここでの退歩は、起こっている心の事象に対して、外向きに出ていくのではなく、内体験へと退いてゆく 瞑想の核心だ

          長年、円覚寺派の老師方に参じられた、禅の先達である故O先生は、私の師の一人である 「O先生、私は、今でもそうですが、若い頃はろくでもない人間でしたよ」 O先生は笑って言われた、 「私もです。石に躓けば、石が悪い、というような若者でしたから」 そこには、爽やかな風が吹き渡ってゐた

          長年、円覚寺派の老師方に参じられた、禅の先達である故O先生は、私の師の一人である 「O先生、私は、今でもそうですが、若い頃はろくでもない人間でしたよ」 O先生は笑って言われた、 「私もです。石に躓けば、石が悪い、というような若者でしたから」 そこには、爽やかな風が吹き渡ってゐた

          回光返照の人は、二人称や三人称を使うことが少なくなり、一人称で話すことが増えるかも知れない あなたが侮辱した、とは言わない 私がこのように傷付いている、と言うだろう 私はこの傷に向き合っている それは全く違う次元のものになる 傷は即座に癒されるだろう そして侮辱した人までをも癒す

          回光返照の人は、二人称や三人称を使うことが少なくなり、一人称で話すことが増えるかも知れない あなたが侮辱した、とは言わない 私がこのように傷付いている、と言うだろう 私はこの傷に向き合っている それは全く違う次元のものになる 傷は即座に癒されるだろう そして侮辱した人までをも癒す

          回光返照と言うと、何かあっても黙っていて言い訳もせず、自分の中に籠ってばかりで、何か損する様にも思われる(笑) 人は原理や原則で生きているわけではないので、勿論言い返すこともある しかし内に入るという術を知った人は、どこか超然としていて、さわやかな風を感じさせる そんな人になろう

          回光返照と言うと、何かあっても黙っていて言い訳もせず、自分の中に籠ってばかりで、何か損する様にも思われる(笑) 人は原理や原則で生きているわけではないので、勿論言い返すこともある しかし内に入るという術を知った人は、どこか超然としていて、さわやかな風を感じさせる そんな人になろう

          自己を見つめるというのは、自己を見つめると考えることではない 極端に言うと、その時、自己に生起している感情、その流れを捉え、実感することである 誰かに傷付けられたと感じるなら、その傷付けた相手に向かうのではなくて、その瞬間の自己の痛みに全的に留まる そのアートを学ぶのが瞑想なのだ

          自己を見つめるというのは、自己を見つめると考えることではない 極端に言うと、その時、自己に生起している感情、その流れを捉え、実感することである 誰かに傷付けられたと感じるなら、その傷付けた相手に向かうのではなくて、その瞬間の自己の痛みに全的に留まる そのアートを学ぶのが瞑想なのだ

          回光返照(えこうへんしょう)という言葉がある 外ばかり見ていた目を、内側に反転させて、自己の心の様子を照らし出す、というほどの意味である 我々は何か問題が起こると、大抵、相手を責め非難することに終始する その時、自己の内面に取って返し、その当体を見つめ、そこに働きかける人は稀だ

          回光返照(えこうへんしょう)という言葉がある 外ばかり見ていた目を、内側に反転させて、自己の心の様子を照らし出す、というほどの意味である 我々は何か問題が起こると、大抵、相手を責め非難することに終始する その時、自己の内面に取って返し、その当体を見つめ、そこに働きかける人は稀だ

          感情が出ない、死んでいる、そこに一つの感情がある それに気付いたならば、そこから探求が始まる 目詰まりして、滞っている感覚 そこには隠された怒りがあり、抑圧があり、悲しみ、そして痛みがある それらに直面しなくて良いように、意識は自らそれを封じ込めていたのだ そこに、気付きがあった

          感情が出ない、死んでいる、そこに一つの感情がある それに気付いたならば、そこから探求が始まる 目詰まりして、滞っている感覚 そこには隠された怒りがあり、抑圧があり、悲しみ、そして痛みがある それらに直面しなくて良いように、意識は自らそれを封じ込めていたのだ そこに、気付きがあった

          インドのアシュラムにいる時、一人の若い日本人の旅人がやって来て、瞑想なるものを初めて経験したのを、私は見た 彼は言っていた「感情が出ない感情が出ない」と 感情がスポイルされているようであった ただ、出ないということの気付きはある その出ないということそのものが、ある種の感情なのだ

          インドのアシュラムにいる時、一人の若い日本人の旅人がやって来て、瞑想なるものを初めて経験したのを、私は見た 彼は言っていた「感情が出ない感情が出ない」と 感情がスポイルされているようであった ただ、出ないということの気付きはある その出ないということそのものが、ある種の感情なのだ