5/15 ジープ

小学校は、まず坂を下って、そののち坂を上ったところにあった。

家を出て右を向くと交差点があって、そこを右に曲がるとはじめの坂がつながっている。坂の上で視線をまっすぐにすると、坂の下の街並みの上に、小学校で一番高くて大きな針葉樹のてっぺんが顔を出しているのが見える。坂を下りていくと針葉樹がだんだんと家の後ろに隠れていく、それが不思議でわざと歩く速さを変えてみることもあった。

坂の根っこはもうひとつ別の坂の根っこに接していて、2つの坂から流れてきた水は交わったのち、もう一本の平らな道をゆるやかに下る。
そんな、坂と、坂と、道の出会う丁の形をした交差点を通り過ぎる。もうひとつの坂のてっぺんに、古びた図書館の看板が見える。下校して家に戻ったら、図書館カードをひもでぶらさげた手提げの袋を持って、この坂を走って上るだろう。

平らかな道を進み、小さな公園を過ぎると下り坂が終わり、正面に上り坂、その果てに校門が見える。小学校に近づくにつれて、吹奏楽部の朝練の音が聞こえてくる。人間が服を着ているがごとく、朝の小学校は管楽器の音をまとってそこにいる。

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当時の登校風景を頭に描くとき、必ず登場する車がある。これから下る坂を逆さに上ってきて、家とも学校とも違う方向に曲がっていく赤いジープ。毎日ほとんど同じ時間に走っているようで、ジープとすれ違う場所でその日の自分の支度の早さを計ることができた。坂を下る途中であれば、すこぶる順調な朝。こちらが坂を下る前に交差点を曲がっていく後ろ姿が見えれば、やや順調な朝。一度も姿を見ない日は、少し小走りになったものだ。

赤いジープとは、朝にしか会わなかった。他のどんな時間帯にも、その交差点を通る姿を、ゴツゴツしたスペアタイヤがオブジェのように飾られた後ろ姿を見ることはなかった。朝だけ現れる、なにか特別な、なにか不思議な車として、小学生の心に刻まれた。

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ある日、そう遠くない場所で駐められた赤いジープを見つけた。きれいな一軒家の前のガレージに、こぢんまりとしつつも少なからず存在感を放って、赤いジープはそこにいた。小さな町に、そう何台も赤いジープがあるはずもない。毎朝の登校を横切る赤いジープの正体は、この赤いジープに間違いなかった。

特別や不思議は破られた、しかし悲しくはなかった。赤いジープが朝を走っている限り、赤いジープと朝にすれ違っている限り、赤いジープは特別であり、不思議だった。桜は春にしか咲かないけれど、春が終わったらなくなるわけじゃない。久しぶりに会った友達は、疎遠の間になにもしていないはずがない。朝を告げる車は、昼や夜を僕に告げないというだけだ。
それからのちも、赤いジープは毎朝のように通学路を横切り、朝を告げていた。

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小学校を卒業し、中学に入ると、登校時間が変わった。同じ通学路を、これまでより早い時間に歩く。あいかわらず、針葉樹のてっぺんが見える。図書館の看板は古びている。でも、小学校は管楽器の音をまとっていない。赤いジープは坂を上ってこない。

それから、赤いジープと交差点で会わなくなってから、何年も過ぎた。それでも、たまに車庫の前を通りかかれば、眠っている赤いジープがときおり見える。何年経っても、赤くてゴツゴツとした見た目は変わらない。

眠っている赤いジープは、朝を告げるあの車と似ている。同じでもあり、違ってもいる。画面の向こうの人間のようで、確かにそれは本人なんだけれども、何度目撃してもなんだか会ったような気がしない。朝にすれ違ってこそ、赤いジープは赤いジープになるのだ。

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最近は長期にわたって家から出ない日々が続く。学校に直接出向くことはなく、今では駅への経路に変わったかつての通学路を通ることもまずない。起きてから寝るまで同じ場所で足踏みをしているような生活、社会に飼われたペットであるような感覚。見えない檻と見えない刑務官におびえ、それがいっそ見える形であってほしいような、そうではないような、揺れる心。似通った暮らしの中で均質化が進み、朝も昼も夜も顔立ちがはっきりしなくなってきたように思える。

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ゴミ袋を家の外に出すというので、久しぶりに玄関を開けた。太陽が西に傾いていて、はじめて今が夕方なのだと知る。

ゴミ置き場にゴミを片付けて振り返ったとき、まばゆい夕陽を背に受けて赤いジープが家の前を通り抜けていった。朝だ、と瞬間思った。長い夜のような自宅生活ののち、家から出てすぐに赤いジープとすれ違うという行為が、記憶が培養したトリガーを引いたのだ。

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夕陽を浴びた赤いジープが、朝を告げに来た。

それは、これからも長く続くであろう夜に差し込んだ、いっときの朝日のようだった。

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