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ギャクバリストを照らせ 20230213

それは異様な空間だった。
後楽園駅で下車し、人波に乗ってペデストリアンデッキを渡ると、ドームをぐるりと取り囲む通路の至るところで人々が滞留していた。そのほとんどが親愛を示す”証”を身につけ、交流し、同じ御旗の元で愛を確かめあっている。見渡せば見渡すだけ、誰かに愛を注ぐ者の熱を帯びた姿が目に入る。個々の”証”から、一張羅から、そして表情から立ち上がる感情のパワーが重なり合ったがゆえの、異様な空気をまとった空間がそこには広がっていた。

2023\2\12、東京ドームではこれのDay2にして最終公演が開催されていた。
この前日にDay1をライブ配信で鑑賞した友人の昂ぶりに感化され、うっかりチケットサイトを開いたところDay2の座席がまだ購入可能であったことから、金額には目をつぶり勢いに任せて確保してしまった。
このコンテンツに限らず、メディアミックスの一環として作品関係者によるライブパフォーマンスが行われるコンテンツはいくつか楽しんでいるが、どれも実際に現地に赴いたことはこれまでなかった。‥‥これはウソで、「響け!ユーフォニアム」のアニメ―ションで流れた劇中曲が演奏され、出演声優も登壇・歌唱するイベントには行ったことがある。しかし自分の中で、かつて行ったそのイベントと「ライブ」の間には、厳然たる壁が立ちはだかっていた。
ともかく、後楽園駅に降り立った私のステータスは「初参加」にして特定の人物を想起させるグッズを持たない「無所属(のフリ、実際の好意に傾斜はある)」、とまあモブみたいなものであった。

イベント会場、この舞台装置は無数の価値観と世界をめくるめく映し替え、そのたびに参加者も入れ替わる。もし自分の知らないコンテンツのイベントがそこで開催されていたなら、広がるだろう同種の空間に対して私は無知からくる恐怖と、どこかしら漂う部外者への拒絶を感じ取っていたことだろう。
しかし、今回ここに来た私はあまりにもこの世界のナラワシを知りすぎていた。そして、自分が知っているものを周りの(掛け値ナシに)全員が自分以上に知っているという畏怖の念、それこそが私にこの空間を異様と感じさせたのだと思う。あまりにも多くの人間が同じ旗のもと、相似の愛をエンリョなく溢れ出させている。"知"の集合体恐怖である。

うまく伝わるかわからないが、私は”中の人”を自分の認識の中で”外の人”に近づけようとするのが苦手だ。だからこれまで、わざわざ見に行こうとは思わなかった。
もちろん、ライブで好きな楽曲がかかれば気持ちは高揚して口ずさんだりする。体はリズムを求めて揺れる。出演者の方々がイキイキとパフォーマンスしていれば嬉しくなる。そういった意味ではとても楽しい。予測不能なセットリストに驚き、キラキラ光るステージと眩しい笑顔の出演者、そして曲ごとに色を変えて応援する観客席の美景を後ろのスタンド最後列からスミズミまで眺めるのはとても楽しかった。
ただ、それらを繋いでいった最後の半直線の先に”いるはずのもの”を見ることが、おそらくできないのだ。曲の力、パフォーマンスの力、演出の力をもってしても、境界線がアイマイにならない。渾然一体になってくれない。そのもどかしさが申し訳なさへと接続し、興奮ゲージをぐぐっと押し下げてしまう。

想像するに、あそこに集った観客全員が全没入していることはおそらくないだろう。観客の数だけ見方がある、感じ方がある。
ユメを追って向こう側へ行く者、ウツツの迫力に酔いしれる者、あるいはユメとウツツの汽水域にたゆたい、マボロシを見てトロける者。アンバイもそれぞれに、注目先もそれぞれに、思い思いに楽しんでいるはずだ。
中には、私のような煮え切らない思いを抱きつつも、折り合いをつけて上手に楽しんでいる人だっているだろう。全没入できないからといって、ライブを見てはいけないということではない。ないんだけどさ。

この不完全燃焼を引き起こす原因も、見つかりつつある。興奮ゲージには、硬い硬いリミッターが突き刺さっている。
それというのも、人が集えば集うほど「ダマされてなるものか」と当事者意識を抜け出し、俯瞰視点を持とうとしてしまうのだ。
今回に限った話ではない。音楽コンサートはいつもそんなことをふと考えてしまう。曲にウットリする自分とその集まりを、どこかで見ている感情のない目の自分の存在が常にある。”知”の集合体恐怖症はここでも発揮されていて、同じモノを大勢の人が奉ずる空間が恐ろしくてかなわないし、いちど没入したら取り返しがつかないと思っている気がする。
俯瞰の自分に笑われたくないあまり、できないことが多い。サイリウムだって、友人から借りたのに一度も振れなかった。

言い方を変えると「逆張り根性」となり、イッキにダサいヤツに早変わりするのだが、悲しいかなそういう精神の持ち主なのだと思う。より実際に近づけた描写をするなら、逆張りの仮想自分を作って本体を監視させることで、本体の自由を制限している。

似たようなことを考えている人は他にもいるかもしれないが、少なくともみんなが私ではなくて良かった、波風の立たないほんとうにつまらない世界だっただろうから。ライブの観客4万人が全員私だったら、成功するライブも成功しないだろう。それとも、働きアリの法則のように、ノーテンキハッピーな私とツマランギャクバリな私とに自然と役割が分かれていくのかしら。

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ギャクバリー病と付き合う目下の治療法として、恐怖をスリルに変えてしまえたら、と考えた。大きな負の感情が反転したら、巨大な明るいエネルギーが生まれそうだ。まあ、反転なんてことをしたら今までの自分を失うようで、怖くて怖くてとてもやれたもんじゃないが。

そういえば、4時間に及ぶライブで恐ろしさなどが行くところまで行ったのか、アンコールを受けた最後の曲では、借りたサイリウムについにオレンジの灯をともし、おずおずと振ってみた。これは一体感を増すための道具でもあるのか!とそこではじめて気づく一方、自分だけ使っていなくて心細いからという理由で使いはじめるくらいなら、今後やらなくてもいいか‥‥という結論に達した。

それでも点したオレンジの光は、自分でさんざん溜めただけのことはあって、なんだかキレイに見えたものだ。
願わくば、自意識から自由に生きるための道しるべになっておくれ。
筋金入りのギャクバリストの足元を照らしておくれ。

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