年越しという感覚

「申し申し」が「もしもし」になって定着したなら、「あけましておめでとう」も「あけおめ」になって定着するのだろうか。

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年末年始は”家”を空け、小旅行をハシゴしていた。数日の間をおいて帰ってみると、仮住まいも拠点として家の雰囲気をまといはじめていて、ここにいる時間の長さに改めて思いを馳せた。

「年が終わる気がしない」とか「年が明けた気がしない」といった会話はこの時期の定番ともいえようが、考えてみればそりゃそうだろという話で、”年”なんてそもそも存在していないからだ。
年も月も日も時も分も秒もひっくるめた「時間」というヤツは、実はかなり目を凝らしているから見えるものであって、自然状態では持つはずのない概念。これが”社会の約束”としてそこらじゅうに遍在し、たえず耳目に触れているから、空気のように存在をアタリマエとして処理してしまうけれど、人間の駆動に欠かせぬ内蔵・所与の歯車では元来ないのだ。

時間という四次元、この漠然としたもやのようなカタマリ自体はとても流動的なのに、区切りを与え名前を与えその量を計り数える段になると、途端に硬直する。”数”が本質的にもつ非連続性も手伝って、切り分けられた時間はパキパキと簡単に割れていく。
時の流れが本来持つ柔らかさと、それを”時間”として可視化したときに必然的に生じる硬さとのギャップが、ときおり時間感覚を狂わせる。

年越し(と、それに限らず時間が過ぎるということ)は空港の保安検査場でセキュリティーゲートをくぐるようなものだ。平たく言えば、歩いている道の途中にゲートがあるだけなのに、目の前にするとやたらとソワソワする。通る上で特別なことをする必要は一切ないけれど、ちょっと体に力が入る。くぐったあとはひどく拍子抜けする。そして、くぐった前と後が別の世界のような気分がもたげる。そんなことないのに。一緒なのに。

なお、ブザーが鳴った場合はこの限りではない。

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本当はこのあとに概念めいた話をタラタラと書いていたのだが、展開に失敗したためバッサリと割愛。

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時間のものさしに絶えず自分を合わせながら生活していた都会の時分に比べると、こちらでは時間を気にする頻度がめっきり減ったように思う。”気がついたら○時”という感覚の方が多い。

精緻に正確に進んでいく時間は、ときに生活を圧迫する。数カ月後にはまた都会生活が始まるから、それまでになんとか時間とのうまい付き合い方を見つけておきたいところだ。

というわけで、気がついたら2020年、年が明けた感じはしませんが、今年もよろしくお願いします。

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