セカイが語りかけてくる感覚に襲われる

セカイのすべてがコトバに「見える」‥‥そんなトキが、いくどかあった。

それは小説を読みふけったあと。作家のつむぐ別の世界へといざなわれ、自分を取り囲むセカイから指一本分浮いているような時間を過ごしたのち、ふと本から顔をあげたとき。
もとのセカイに降り立ったのに、別の世界を覗くのに使っていたゴーグルが外れなくて、セカイと世界が入り混じる。世界の筆致で、セカイのあらゆるものが染められていく。

夏目漱石を読んだあとは、漢語混じりの重々しげな文体で。
I.W.G.P.を読んだあとは、瑞々しく疾走感のある文体で。
セカイが、無数の”地の文”に置き換わる。セカイから受け取った感覚ひとつひとつ、文章になってふと脳内に出現し、またふと霧消する。
旅人が未知の地で多くを感じ取るように、僕は世界からセカイに来た旅人になり、万物の主張に耳を貸す。あるいは貸す間もなく、万物のほうから耳に頭に飛び込んでくる。

しかし、この旅はいつまでも続かない。小説を読んでいるときは手を伸ばせば届きそうなくらい近くにあった世界が読後時間とともに離れていくにつれ、この感覚もまた消えていく。セカイは”あるべき姿”を取り戻し、なにも語りかけては来なくなる。僕は世界からの帰還を果たし、地に足をつけてセカイを再び歩きはじめる。

これといって外に出かける用もない日ほど、外が晴れわたるときもない。開けた窓から部屋に入り込む冷気は体を震わせるけれど、それが出かけない理由になってくれないくらいには、気持ちのいい空気をまとった日曜日の昼下がりだった。

「家」からほど近くに小さな喫茶店があるのはかねてから知っていたが、近くにあるからいつでも行けるというありふれた錯覚のもと、店の横を通り過ぎる日々が続いていた。なればこそ、予定のない今日のような日に訪ねてみようと思い立つ。外出の一歩目をこの上なく小さな歩幅で踏み出すことにし、さらなる二歩目を意識して自転車にまたがった。

わずか数分で店の前に到着した。小さな入口、年季の入った木製ドアから覗いてみると、二三あるテーブル席は全て埋まり、狭い店内も相まってほとんどごった返していた。ノブを握る手が一瞬躊躇した、しかし用もないのに躊躇したところで先はない、意を決し店内に踏み込んだ。

マスターらしき初老の男性は、入ってきた新参者とにぎやかな店内を見比べながら、

「ちょっと時間かかるけど大丈夫?」

と至極フラットなトーンで聞いてきた。あまりにフラットだったから、これが一見さんに厳しい京都の洗礼かと心の中で身構えてしまった。怯んだ心を立て直し、問題ない旨を伝えて店の奥へと進む。背もたれが低く座高の高いカウンター席の椅子に腰掛けると、短い足が宙に浮いた。
ちょうど目の前にサイフォンの上ボールを立てておく木の棚があって、その向こうでアルコールランプの灯が揺らめいている。物珍しさにしばし見とれながら、いい席に座ったなと思った。

ふだん出している定食が今日は都合で休みだというから、選べる食事はメニュー表の上段を占めるカレーライスの類しかなかった。なにも載せないプレーンなカレーと食後のブレンドコーヒーを頼んで、グラスのサイズに似合わない大きな氷がゴロリと入ったお冷をすすりながら、改めて店内を見回した。
テーブル席には外国人の姿が目立つ。店内に小さく流れるジャズをかき分けるように、どこかの国の言葉が聞こえてくる。カウンター席にはひとりだけ常連らしい先客がいて、そんな賑やかさをも肴にしてカップを傾けていた。
繁盛する店をひとりで仕切るマスターは終始せわしなく店内を動く。でも、お冷が少ないと見るや、すぐに交換してくれる。無言で置かれる新しいコップに添えられた手が、隠しきれない心の温もりを物語る。

数分後、ひとりで入ってきた客がカウンターの席をひとつ空けて隣に座り、同じメニューを注文した。タバコの煙をくゆらせながら、ようやく落ち着いたとでもいうようにひとつため息をついた。
タバコは吸わないし好きでもないけれど、少なくとも道端の喫煙所で吸うよりは明らかに気持ちのよいタバコなんだろうなと思った。

さらに数分後、待たせることもなくカレーの皿が運ばれてくる。入店したときの確認はまぎれもなく心遣いによるものだったのだと知り、疑念を挟んだ自分を恥じる。手を合わせ、具も溶け出してほとんど純粋な茶褐色の液体をすくい、口に運んだ。
期待を裏切らない、中庸な喫茶店のカレー。特別な味というわけではないが、だからこそ心が安らぐ。クラシックな赤い福神漬も無性にうれしい。ほんのりコーヒーの味がしたのは、隠し味だったのか、店に漂う芳香が鼻腔に残っていただけだったのか。

食べ終わるなりカウンターの奥から手が伸びてきて、スプーンで掻いた跡の目立つ皿は下げられ、かわりに真っ白なソーサーが置かれる。斜め前の焙煎機が唸り、挽かれた豆が手際よくロートに入れられ、手品のようにフラスコの湯が上がっていく、見るともなくぼんやりしていると、フラスコに溜まった液体がいつのまにか注がれていて、置かれたカップはソーサーと美しく調和する。

最初の一口は熱すぎて味をはねとばしてしまった。無心で湯気を眺め、改めて口に運ぶと、ふだん「家」で淹れるドリップコーヒーとは違うサラッとした口当たりに驚く。すぐに飲み干せてしまいそうな誘惑と戦ってカップを戻し、鞄から文庫本を取り出す。図書館の文庫コーナーをピンとくるまで何往復もして見つけた、石田衣良の掌編小説集だ。この頃実用本ばかり読んでいたから、最初の数ページをめくったころ、暖房とコーヒーが効いてポカポカとした体に、新鮮で爽やかな風がひとすじ通り抜けた。

そのまま読み進め、ふと気づくと賑やかだったテーブル席から人の姿がほとんど消え、流れていたジャズもアルバムの再生が終わったようで、先ほどとはうってかわった静寂さが店内を支配していた。まったくの無音ではなく、水を温めているとわかる蒸気の音、食器が触れ合うときの高い金属音、ドアを隔ててかすかに聞こえる車の走行音、さきほどまで聞こえなかった脇役たちがおずおずと店内に響いていて、これはこれで悪くないなと思った。

しばしの”無音”に聞き惚れていたら、マスターがまた別のアルバムを流しはじめた。今度はより明るくグルービーなサウンドで、スター選手のように堂々とした存在感を放つ。内気な”無音”はすっかり影を潜めてしまった。
小説はまだ3分の1ほどしか進んでいなかったが、少しずつ飲んでいたコーヒーをすでに飲みきって店内に居座る後ろ盾を失っていたため、頃合いと見て席を立った。マスターは大きな声で「おおきに」と言ったあと、深々と頭を下げた。
僕はまた、この店に来る。

扉を押し開けて外に出たら、僕のセカイは小説の筆致になっていた。いや、喫茶店にいるときから既に”それ”は始まっていたのだろう。
あふれ出る”地の文”をこぼしながら、不意にこのことが記録したくなって、繁華街に向けて駐めていた自転車を逆向きにして地を蹴った。一刻も早く「家」に帰ってキーボードを打ちたかったから、自転車で来たさっきの自分に感謝した。

わずか数分の帰り道、毎日通るいつもの道もまた、”地の文"に染まっていた。見たことがあるようでないような、曖昧で浮ついた気分に侵されながら”世界的セカイ”を走り抜ける。

他の文章を見たらこの感覚がすぐに消えてしまいそうで、余計な寄り道もせずnoteの編集画面を開いた。いや、オードリー若林さんの結婚にまつわるエントリだけ1本読んだっけ。それからずっと、これを書いている。

書き終わった。画面から顔をあげると、セカイは元に戻っている。部屋の隅に丸まっているゴミも衣服も、もはやなにも語りかけてこない。そこにはくたびれた日常があるだけだ。あの不思議な感覚は、例によって姿を消した。
でも、小説はまだ3分の2残っている。読み終わって顔をあげたとき、またセカイが違う顔を覗かせてくれるだろう。

本は、小説は、異世界への旅であるとともに、”日常というセカイへの旅”でもある。異世界からみた日常は異セカイとなり、知らない輝きをまとっているものだ。
京都の「家」から東京に戻ったとき、僕の”セカイだったもの”は、どう見えるのだろう。まだまだこっちにいたい気持ちは変わらずに、でも帰るのが少し楽しみにもなった。

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