隣の隣のお姉さん

仮住まいの地である京都から帰ってきたのは、今年2月のことだった。この章に「半年にわたる長い充電期間」という聞こえのいいタイトルを与えて締めくくるべく、寝泊まりした2畳半の部屋を念入りに掃除している頃、宿では海外客のキャンセルが目立ちはじめ、近くの薬局には品に代えて品薄の文字が並びはじめていた。スーツケースの発送手続きをしたコンビニの前で、「また会おう」という言葉とともに宿主と交わした握手をよく覚えている。次はアジサイが花開く梅雨どきにでも、この町に帰ってくるつもりでいた。

昨年夏からの半年間を通して、京都は旅先から馴染みの地になった。しかしそれは一時滞在に過ぎず、”正当な理由"を持たない者はつまるところ旅人で、媒介者なのであった。上りの新幹線で元の鞘に収まったナマクラ刀は、それはそれでと居心地の良さにふけり、似たような日々が流れていった。

再び京都を訪れたのは、だから9ヶ月ぶりということになる。薬にも毒にもなる旅行虫たちが耐えがたく全国へ放たれていく中で、一度きりのとんぼ返りを試みる虫がここにもいた。

---

1人目

滞在中によく通っていた宿近くの居酒屋は、10席ほどのコの字カウンターだけを持つ年季の入った大衆居酒屋で、地元の人や近くの宿からの観光客で連日賑わっていた。通ううちに顔を覚えてもらい、なにかと懇意にしていただいた、思い出深い店である。

東京で趨勢をうかがうたびにあの店のことが頭をよぎった。地図アプリ上で営業が続いていることを確認し、(真偽不明とはいえ)ひとまず胸をなでおろす日々。まだ見ぬ京都旅行の暁には、いの一番にこの店を訪ねようという計画が、片隅で絶えずくすぶっていた。

幸い、店は営業を続けており、久々にも関わらず顔も覚えていてくれた。店の雰囲気も、親切なのも大盤振る舞いなのも変わっていなくて心底安心したが、やはり客の数はまばら。毎日複数組来ていた観光客が途絶え、もっぱら高齢者だという常連の方も外出が減ったことで顔を出すのが難しくなっていて、多分に漏れず厳しいとマスターは教えてくれた。勤めていた宿(今回もそこに泊まった)にも客の姿は見えず、平日はほとんど誰も来ない状況で、報道で見たのと同じような寒波が、この町をも覆っていた。

訪ねた日は先客がいて、(その店には珍しく)日本人と思われる若い男女連れがカウンターの一角で楽しげに皿をつついていた。男性が座っている席からひとつ空けて座り、女将さんと「久しぶり」などと交わしながら料理を頼む。グラスを傾けつつ、隣の様子をうかがう。この店のコの字カウンターはこぢんまりとしているので、知らない客とも気軽に話せるのが魅力。同じ年ながら入社年が違うため先輩後輩の関係だというおふたりともすぐに仲良くなり、マスターや女将さんも巻き込んでいろいろな話に花が咲いた。「後輩」のハンサムなお兄さんは常に明るく場を回し、「先輩」のお姉さんは顔立ちが渋野日向子似であることをゴルフ好きのマスターに事あるごとにいじられつつも、ずっと笑顔で飄々としていた。2人より7歳ほど年下の私は、「え、思ったより若いんだね!」「そんな年齢に見えない!」という言葉をきっかり額面通りに賜った。

いつしかお兄さんとの間に空いていた席は詰められ、頻繁にグラスを合わせ「楽しいな!」と唸る隣のお兄さん。隣の隣のお姉さんはずっと同じテンションのまま、そんなお兄さんと私をニコニコと見つめている。他に客がいなかったこともあり、マスターと女将さんもカウンターの方に出てきて、楽しい時間は永遠に続くように思われた。

時計を見ると1時半。

1時半‥‥? ここに来たの20時じゃなかったか?

「後輩」お兄さんの方はかなり酒が回り、仕上がりが近い。明日も近くの会社で朝から仕事だとこぼすお兄さんを送っていく、と「先輩」お姉さんが立ち上がったので、お供しますと私も席を立つ。マスターに見送ってもらい、外に出ると「寒い」に片足を突っ込んだ深夜の道。千鳥足で進むお兄さんの後ろを、「普段こんな人じゃないんだけどな」と笑っているお姉さんと私で見守りながら歩く。こういう状況、なんだかとても久しぶりだった。

家にたどりついたお兄さんがうめきながら階段を上っていくのを見届けたあと、私の宿の方角にお姉さんの住まいもあるということで、2人で肩を並べ夜の町を歩く。お姉さんは京都の出身ではなく、こちらの会社に勤めることになってから引っ越してきたんだそう。京都にはあんまり慣れない、昔住んでいたところのほうが良かったな、そんなことを言っていた。小柄な私からは少し見上げた位置にあるお姉さんの横顔は、なんだか大人だった。

10分ほどで宿に着いて、お姉さんとはお別れした。居酒屋に5時間いたとは思えないまっすぐな歩き姿を、しばらく立ち止まって後ろから眺めていた。連絡先も知らない彼らに、また会えるだろうか。

---

2人目

もちろん日がな一日居酒屋に入り浸っていたわけではなく(肌感覚ではそんな気もするのだが)、夜明け前に清水寺まで歩いて開門を目撃したり、図書館に入ってオンライン講義を受けてみたり、紅葉を味わったり、喫茶店で小説を読破したり、と悠々過ごした。深夜バスで到着した朝5時、駅前にいた謎のおじさんに「今日仕事あるけどどう?」と言われたのもなんだかいい思い出だし、1日目に酔い過ぎて翌日17時まで寝ていたこともなんだかいい思い出だ。

だもんで、京都を発つときは、多分に後ろ髪を引かれていた。帰りたくなかったので帰りの交通手段は確保しないまま過ごし、あわよくば延泊まで考えたが、覚悟を決め当初の日程通りに帰宅することを断腸の思いで決意。スマートEXなら指定席と自由席にさして値段の差があるわけではないが、(当日なら)時間の指定すらない自由席を選び、好きな時間に帰るほうを選んだ。

自由席乗り場は各ドア前10名程度の列。これならば座れないことはまずない。土産を飲み込んで行きよりも膨らんだバックパックと、移動中に読む本を突っ込んだショルダーバッグが干渉しないように肩に掛かる場所の正解を探していたら、新幹線がホームに滑り込んできた。正解位置を見つけたばかりのカバンを素早く肩から下ろし、いそいそと乗り込む。

東海道新幹線の自由席は、進行方向を向いた状態で通路を挟んで左に2席(E、D)、右に3席(C、B、A)が並んでいる。見渡すと窓側であるEとAはやはりほとんどが埋まっていたので(コンセントがあるのが窓側だけというのも大きいか)、空いている席を見て周囲との間隔を確保できるC席に座ることにした。40Lのバックパックを足の間に挟みながら腰を下ろす。京都からの客で自由席はそこそこの混み具合。しばらくして、音もなく新幹線が滑り出した。

同じ列のA席、つまり隣の隣には黒いマスクをつけたお姉さんが座っていて、大きなスーツケースを床に倒してフットレスト代わりにし、前の座席から引き出したテーブルにストロングゼロの缶を載せていた。綺麗に飾られた長い爪の先が、スマホの画面に当たってコツコツと音を立てる。横目で観察していたら、突然お姉さんに声をかけられた。あの、これ下げちゃって大丈夫でした‥‥?「これ」とは窓を覆うカーテンのこと。景色を見たいという人には無用の長物だが、時間帯によっては傾いた陽光が直接射し込んでくることもある。進行方向を考えるとこの窓は南~南西を向く時間が長いので、眩しさを抑えるためにもカーテンは下げておいたほうが良い。
とまあ、そんな理屈めいたことを考える前に口が動いていた。あ、大丈夫です。‥‥脊髄反射といって差し支えなかったが、大抵のことは大丈夫なのである。だから大丈夫なのである。よかった‥‥と目尻を下げて笑顔を見せるお姉さん。心なしかトロンとしているように見える。もしかしたら、お酒のチカラが既に多少働いていたのかもしれない。お姉さんはスマホの世界に戻り、私は持ってきた本を広げた。

しばらく経って、お姉さんの体が若干こちらを向いているような気配を察知する。出ていくのが難儀なのは窓際の席の宿命である。なればこそ、こちらも協力は惜しまない。足の間に挟んでいたバックパックを荷棚に載せ、道を作る。こちらの意図を知ってか知らでか、会釈をくれるお姉さん。しかしそのまま出ていくわけではなく、妙にもぞもぞしている。スーツケースの中身に用事があるようで、とりあえず今まで足蹴にしていた彼奴を起こそうとしている。しかし、なかなか起き上がらない。座席前のスペースに挟まってしまっていたので、声をかけて一緒に持ち上げる。1週間はラクに暮らせるとみえるサイズのスーツケースは、しかし思ったより軽かった。2泊しかしないんです、少し大きすぎますよね‥‥。照れ笑いを浮かべながら、お姉さんは中からタバコとライターを取り出し、ようやく通路を抜けてデッキに向かった。

ひとり残された私は、本を読みつつ考える。お姉さん、酔ってたな。さっきストゼロ缶がテーブルから落ちたとき乾いた音だったから、あれはたぶんもう空っぽだよな。そういえばさっき、缶を床と垂直にして飲んでたもんな。足取りも若干おぼつかなかったし、大丈夫かな。もう本の内容が頭に入ってこない。目下私の使命は、スーツケースが電車の揺れに合わせて転がってくるのを足で押さえることだった。にしたってデカすぎるな、さっき1週間と見積もったけど2週間はいけるんじゃないか。悶々と考えているとお姉さんが戻ってきた。ふくよかなお姉さんは、私の足と前の座席の間を通り抜けるのにも苦労。スーツケースを一瞬持ち上げて道を作り、なんとかA席に収まった。

行先を聞いてみると、新横浜で降りて友人の家に泊まるとのこと。僕は東京まで行くんですよ、と行き先交換を終え、ひとまず小康状態となった。そうこうしているうちに新幹線は名古屋を出て、長い長い静岡県に入っていった。

私は再び本を読む。ひとりで出版社を立ち上げた人の自伝だ。宿主に薦められ、東京に行くときに読みなよと貸してくれた本は読みやすく面白い。一気に読み進め、浜松を過ぎた頃には読み終わってしまった。ふと横を見ると、お姉さんはスヤスヤと眠っていた。両耳にイヤホンをつけ、ごくごくたまになにかの音楽が小さく漏れ聞こえる。カーテンを閉めたので、太陽の光が眠りをジャマすることもない。唯一ジャマをするものがあるとすれば、それはB席と前の席の間に鎮座するスーツケースである。せめて鎮座してくれていればいいのだが、車輪は列車の傾きに忠実に転がらんとする。通路へ飛び出していくのを止めるのは”希望(のぞみ)の防波堤”と呼ばれた私に任せてもらうとして、反対に傾けばスーツケースはお姉さんの左膝を狙って容赦なく転がっていく。あまりにも気持ちよさそうに寝ているお姉さんを起こしたくはないと思い、スーツケースをその都度どうどうと抑える。新幹線は快調に駿河湾の横を走る。左手には富士山が見えてきていた。

さて、名古屋を出たのぞみが次に止まる駅をご存知だろうか。新横浜である。皆さんは聞いたことがあるだろうか。私は先ほど、お姉さんから降車駅としてその名前を聞いたのでよく知っている。そして、あと20分ほどで到着することも知っている。お姉さんはぐっすり眠っている。車内のモニターには熱海通過の文字が流れる。到着駅が近づいた乗客のソワソワ感が自由席全体に広がっていく。荷物を整理している人がいる。お姉さんはぐっすり眠っている。ついに車内アナウンスが響く。まもなく、新横浜に到着いたします――Ladies and gentlemen, we will soon make a brief stop at, Shin-yokohama. 車内は荷物を取り出す人で俄然ざわつく。アナウンスに気づいてくれとお姉さんを見るも、両耳には無情にもイヤホンが刺さっている。列車が減速をはじめている。通路に立ち、ドアへ向かう人が現れる。お姉さんはぐっすり眠っている。お姉さん。おねえさん――

いろいろなことが頭を渦巻いた。ただ、「新横浜」を聞かなかったことにはできなかったのと、仮に終着駅の東京に着くまでにお姉さんが起きたときの気まずさを考えると、このまま見殺しにするわけにはいかなかった。

左肩をトントンと叩いてみる。お姉さん、おねえさん。声をかける。届かない。両肩を叩く。お姉さん。お姉さん! 両肩をゆする。お姉さんは、暖かくふわふわとしていた。お姉さん! 新横浜だよ! 降りるんでしょ!!
ようやく薄目を開けるお姉さん。んあ? 次、新横浜だよ! あ、私寝過ごしましたか‥‥? 完全に寝ぼけている。次! 次だから! 今支度すれば間に合うから! 敬語など、吹っ飛んでいた。

数回まばたきをしたお姉さんは、目を大きく開け――うおーと声を漏らしながら、隣のB席に向かって上半身を投げ出した。世に言う二度寝である。気持ちはわかる。わかるが、電車でGOで停車位置減点を喰らいまくった私の経験が、もう先頭車両はホームに入線している速度だわこれと告げている。私の中の二度寝応援隊には二度寝してもらい、最後の気力を振り絞ってもう一度お姉さんを揺さぶる。ここで寝ちゃだめだよ! 起きて! 降りるでしょ! お姉さんの肩越しには窓があり、カーテンの閉まっていないところから車両が完全に入線したことが確認できる。新幹線が停止する。ドアが開き、人が降りていく。お姉さん! 着いちゃったよ!

ようやくお姉さんは頭を持ち上げる。新横浜着いたから! 降りよう! 完全に寝起きのお姉さんは、それでも頑張ってテーブルの上の荷物をまとめている。新幹線は長く停車しない上に、ほぼ予告なしにドアが閉まる。焦っているのは私のほうだ。駅に着いて20秒ほど経った。いつ閉まってもおかしくない。お姉さんが出ていく道を作ろうと席を立って通路に出る。デカいスーツケースを引きずり出す。お姉さんを見る。動きが鈍い。間に合わない。やるしかない。腹の底に力を入れ、お姉さんのスーツケースを全力で転がす。お姉さんが付いてきてくれていることを祈りながら、振り返らずに進む。もう全員降りただろうと思っていた乗客がキャスター音に驚いてこっちを見ている。デッキにつながる自動ドアが開く。ホームへ降りるドアはまだ開いている。片足だけホームに出し、体は新幹線の中に入れたまま、スーツケースをホームに置く。お姉さん! 振り向くと狐につままれたようなお姉さんが立っていた。お姉さんをホームに降ろす。これスーツケースね。‥‥‥‥あ‥‥。それじゃ、お気をつけて! ‥‥‥‥。遅延につながらないよう、ドアから離れる。たぶんすぐにドアは閉まったんだと思う。元の席に戻った頃、新幹線は音もなく動き始めた。窓からお姉さんが見えた。しばらく茫然と立っていたが、やがてスマホを操作し、出口へと歩きはじめた。それが、お姉さんを見た最後だ。

---

また会いたいけど、もう会いたくても会えなさそうなお姉さんたち。(2人目のお姉さんは特に)

隣の隣は、近くて遠い。遠くて近い。でもやっぱり、遠いのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?