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【インド瞑想記⑧】単調な日々を淡々と、だけど地に足をつけて

注釈:本noteは2013年5月に書かれたブログに若干の修正・加筆を加えたものです。

#⑦にひき続いて...。

緊張感を持って、サバイバル意識を持って毎日を生きる。

何気ない一日こそ、一瞬一瞬に「生」をねじ込んでいく。常に前のめりに。

射程に強靭な精神、精悍な顔つき、心の中に孤絶した砦を。

独立心と主体性。

どれほど過酷な環境に置かれていても、気持ちの持ちようで自分は常に"自由"であり続けられる。

ホリエモンは収監され身体は牢屋にあったが、心はずっと自由なままだった新刊で言っていた。

星新一の短篇集の中で「欲望の城」という物語がある。

現実世界の生活はとても苦しくて、何の代わり映えもしない男が、常にニコニコ笑顔で充実した様子で生きている。

彼は夢の中に欲望の城を築城し、そこで次から次へと自分の欲しい物を取り揃えていく。

何が言いたいかというと、日本にいても、フロリダにいても、インドにいても「自分」は常に"そこ"に在るということ。

自分からは逃れられない。

日本での生活は「酒池肉林」だったような。そんな気さえしてくる。

ギリシャ人の参加者が明らかの体調を崩している。顔はやつれ、顔色も優れない。生気が感じられない。大丈夫だろうか。

菜食だからか、汗がほとんど臭わない気がする。

一曲聴くことが許されたならDragon Ashの「静かな日々の階段を」聴きたいと思う。

草木は緑、花は咲き誇り色とりどり

四季はまた巡り、小春日和

用もないのにただ 並木通り 思う今一人

ハーフタイムなんてなしに過ぎる日常

俺もなんとかここで一応、やりくりしてるわけで

時にはなりふり構わずに生きよう

むかえる朝 変わらずにまだ 陽はまた昇り

くりかえしてゆく

窓の外は南風 洗い流してこの胸の痛みまで

過ぎ去りし日の涙 時がやがて無意識の中 連れ去るのなら

大事なのは光だけ あともう少しここにいたいだけ  

フロリダ大学に留学しているときに、よく聴いていた。

あの頃は、コレ以上に時間がゆっくり流れていくこともないだろうと思っていたけど、ここでの生活は遥かにそれを上回る。

気が付いてみれば、アシスタントの人が少なくなってきている。

このプログラムを支えているのはインストラクター(勝手に"総帥"と呼んでいた)とアシスタント3人であった。

その3人も勝手にギニュー特戦隊と呼んでいた。笑

その一人一人にあだ名も付けていた。リーダー格っぽいゴルゴンゾーラ、副リーダーのようなアルキメデス(特に深い意味は無い)、そしてベルおじちゃん。

スケジュールの合間合間にベルを回しながら部屋(residence)を回り、休憩時間が終わったことを知らせる。

このベルおじさんが可愛くて仕方なかった。でも6日目を過ぎた辺りから姿が見えなくなった。

ほとんどの参加者ともまったく会話をしないまま、プログラムが始まってしまったため、名前すら分からない。だから、勝手に心のなかで、"Jay-Z"だの"仙人"など相貌から独断と偏見でアダ名を命名していった。

そして勝手に愛着を抱いていた。

瞑想の本諦は雑念を振り払うこと。

インストラクターも"In thought, one can never observe it" (考えていては、観察することはできない)と言っていた。

諸念から離れ、ただ自分の内部のセンセーションを眺め、観察する。

ただし、「頭の中を空っぽに」ほど言うは易し行うは難しなこともなかなかない。

「生きていることの意味なんて、生きてから考えればいい」というように、瞑想の効用なんて瞑想が板についてきてから考えればいい。

"Only those who will risk going too far can possible find out how far they can go" (行き過ぎることにリスクをいとわない人だけ、人間がどこまで行けるのかを知ることができるのかもしれない)

というT・S・エリオットの言葉が閃光のように脳裏をかすめる。

一面の光の中にあっても、常にその裏には闇が在ること。

闇で覆われていても、一縷の光を感じ取ること。

なんとなくATSUSHI「いつかきっと・・・」の

誰かが光失って、涙がそっと溢れて、 自分の無力さを感じて
それでも何か少しだけ分けてあげたい気持ちが
優しさになって身体中をめぐってく

というサビ部分を思い出す。

日本で生き急いでいた日々を反省しつつ、ただ謙虚で、ただ優しい人であれればと思う。

ECHOESの'ZOO'「どこか隅の方で、僕も生きているんだ。愛をください...

23歳になる前に禁煙できて良かったと思う。

無知のヴェールと禁煙について」でも書いたように、惰性から距離を置いた異国に身を置くことが必要だったのかもしれない。

ちょっと話は違うけど、Lifehackerの「良いアイデアが浮かばない時は、逆に最悪のアイデアを出してみるといい」はなかなか参考になる。

だいたいにおいて「不正義」は特定できるが、「正義」が何かは誰にも分からない。

正義のための不正義。

卒論で扱ったことについて、今一度考えてみたりする。

この瞑想の説法を通して、インド哲学やジャイナ教、仏教、バラモン教に興味を抱くようになる。

たしか高校時代の友人の一人が東洋大のインド哲学科に進んだ記憶がある。

にしても、日本に居た頃、積読してた「インド思想史」を読んでおけばよかったと今更後悔。

ちなみにヴィパッサナー瞑想のセンターは世界各地に点在している。

ここインドだけでも数十箇所ある。日本では京都と千葉。

その他、ミャンマー、ベトナム、台湾などのアジア諸国。

ヨーロッパやアメリカにもある。

次に参加する時は、古い生徒(old student)としての参加となる。一度でも10日間コースを修了するとオールドステューデントになるのだ。

OLD STUDENTはより劣った住居環境に優先的に回され、正午以降は食べ物を口にしてはならない。それから、30日間コースへの参加も可能となる。

いずれにせよ、自分にとってはかなり先の話となりそうだ。

一緒にプログラムに参加していたカナダ人(ケベック出身)マークの瞑想記

フランス語で書かれているが、日本語にトランスレートするとわりと意味は通じる。

ところどころに自分も登場している。写真が鮮やかで、かなり雰囲気は伝わると思う。

マークはもう半年以上も、南北インドを物見遊山しているらしい。

99歳大学生、通学に2時間かけ国際政治史の勉強に励む」という自分にとっては、衝撃的だったニューストピックをふと思い出す。

自分も国際政治を専攻していた。だけど自分はどれほどのぬるま湯に使っていたのだろうと。

インドに来て、1週間が過ぎた。残り3日間。

痛みを通じて、徐々にではあるが学びを得ている。

単調な日々を淡々と、だけど地に足のつけて。

#⑨へつづきます...。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。