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正義の剣で他人を攻撃する人が私は嫌いだ。

世の中にある批判とか文句っていうのは、99%「私はこれが嫌い」だと思う。それがあること自体は良くて、嫌だと発言することも別にいい。感じ方は人それぞれだし、価値観が多様であることは基本的にいいことだ。

ただそれを「世の中の正義」に乗せて攻撃してくる人が私は嫌い。

「常識的に考えて、お前のこれは間違ってる」っていうことを言う人。


何かを言うときに主語を広げて、世の中とか、みんなとか、漠然とした外側の存在を盾にしないと批判ができない人というのは、結局自分に自信がないのだ。

自信がないから、自分と違うものや理解できないものの存在を否定しないと不安で仕方がないんだろう。正義という名の剣を振りかざして、世の中という盾に守られないと物が言えない人たち。


もちろん、私にも「自分はこう思う」と自分を主語に何かを言い切るのが怖いなと不安になる時はたくさんある。むしろ、こうやって何かを書くときも、常に恐怖心を持っている。自分の考えが間違っているのかもしれない、という可能性は常にあるから。

私の発言を不快に思う人もいるだろうし、傷つけてしまう人もいるかもしれない。

もし「私」を主語にして何かを語れば、その発言の責任は私が持たなければならない。


間違っているかもしれないことを、すべて自分の責任で言うのは怖いことだ。世界に絶対的に正しいことなんてなくて、正解は人によって、場所によって、見る角度によって、違うから。

ましてどこかから必ずツッコミが入って炎上なんかする総・ツッコミ社会の現代じゃ、誰もが頷く意見なんてものはありえない。


でもだからって、自分が思うことを「私はこう思う」と言わずに、「世の中の正義はこうだ、だから私が正しくてお前がおかしい」という言い方をした瞬間に、正しいものは自分の信じている世の中の考えだけで、それ以外のものの存在が許せなくなる。間違ったものの存在がある限り自分の正しさが証明されないから、攻撃せずにはいられなくなってしまう。


そうやって外側のものに保証された絶対的な正しさを信じて、それを根拠に他人を攻撃してくる人。そういう人の思慮のなさが、やっぱり、私は苦手だ。

他人の正義の存在を想像できない余裕のなさも、簡単に人を否定できる傲慢さも、自分を主語に意見を言えないズルさも。



たとえ世の中の声からは間違っていると言われても、私は自分が正しいと思うことを「私は」こう思うとはっきり自分を主語にして言いたいし、嫌いだ、いやだ、と思ったことには「私は」嫌だとはっきり言いたい。

だけどそれはあくまで「私が」そう思うということだから、そうでない人がいるのは当然だ、とも思う。

正しいとか間違っているとかではない。私にとっては嫌なことでも、その嫌いな対象を消し去る権利は私にはない。あくまでそれは自分自身の問題だからね。

気にくわない存在を消し去ろうと、「みんな」や「世の中」の力を借りない。自分と違う存在を攻撃しない。最近そう決めている。


だから、私が嫌いだなと思うこういう人もいるけれど、そういう嫌いな人の存在も許容しなければいけないなと思う。


それでもいやなもんはいやだから、どうするか。

お互いのために、何も言わずに離れる。ひたすら距離を置く。分かり合えない人とは分かり合おうともわからせようともせずに、遠くで幸せになってください、と願って、さっさと忘れるようにする。それが一番。

たのしいものを作ります