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パリの路上/伊藤連

 伊藤連

 パリで6階部屋というと、まず下宿用の手狭な部屋がイメージされるらしい。建物の屋根がほぼ一定の高さで線をなす街並みだから、屋根裏の階数もだいたい同じになるわけだ。私もいま、10平米に満たない6階部屋に暮らしている。
 アパルトマンの2軒先には、クリスタルという老舗のカフェがある。常連のペドロによれば、クリスタルは、界隈の夜を照らすランタンであり、多様な国籍、多様な職業の人間が羽虫のように集まって、混じり合う店である。そういうペドロはポルトガル人のギター講師、私は17世紀カトリック文学を学ぶ、言葉のままならない学者見習い、ふたりにビールを注いでくれるヤニスはアルジェリア人だ。
 フランスでは、すれっからしの飲み屋であれ、屋内は完全禁煙である。代わりに、路上では、小学校の通学路など特別の配慮を必要とする場所を除いて、基本的には喫煙が許されている。いや、「許されている」というのは、いかにも東京で生きた人間の表現である。「禁止」の反対は、必ずしも「許可」ではなく、単にコントロールが存在しないことでもあるのだから。
 バーカウンターで羽虫同士の交わりを楽しみたい私は、テラス席には座らず、煙が欲しくなるたびに店先の路上に出る。するとたいてい、辺りのカフェのテラス席を回って歩く男や女が、1ユーロの硬貨を求めて話しかけてくる。一度、ポケットにあった20セント硬貨を渡して、俺は乞食ではないと怒られたことがある。これはもっともで、それ以来、余っている硬貨がないときは正直に断るようにしている。
 ついこの前、同じように話しかけてきた初見の男に対して、首を横に振ると、「お前は韓国人の観光客か」と尋ねられた。

——いや、日本から来た学生だ。

「学生か、学生から俺は金をもらわない、生活は大変か」

——円が下がっていて大変だ。

「そうだろう、だがトルコのリラを知っているか、リラはもっとひどい……(さらに小声で)全部エルドアンのせいなんだ」

——わかっている。僕にはトルコ人の親戚がいる。トルコのこと、よく知っているとはいえないけど、たぶん、ふつうのフランス人よりは知っている。

 思わぬ邂逅を祝いたかったのだろう、彼は、これをやる、と手に持っていたロシア語の文庫本を渡してきた。ロシア語は読めないので断ったのだが、結局、無理やり押しつけられてしまった。良心あるひとは、本を捨てることを躊躇うものだから、彼にとっても、この本は見かけ以上に重たい荷物だったのかもしれない。仕方がないので、クリスタルの中にある、共用の本棚に寄贈しておいた。いつかランタンに、この言葉を解する羽虫が誘われる日もあるだろう。
 パリ人は、なぜか誇らしげに「パリの路上は汚いだろ?」と尋ねてくる。期待されている回答はわかっているが、どうしても私にはそれほど汚くは思えない。たしかに、犬のうんち(時には、おそらく、ひとの)が、並木の間隔に沿って、転がってはいる。しかし、東京には酔っ払いのゲロが広がっている。どんぐりと同じだけの吸殻は見る人によって不愉快かもしれないが、開き直った悪意を躁狂なハイトーンボイスで増幅するアドトラックの代わりに、自分のためだけに籠に積んだ小型スピーカーからお気に入りのプレイリストを流して自転車が走っていくぶん、私にはパリの路上の方が美しい。
 だが、この同じ路上で脅かされることもある。といっても、観光ガイドが口うるさく注意喚起する、強引な物乞いやドラッグ・ディーラーの類ではない。
 パリに着いてすぐの頃、国立図書館を出て、ケ・ド・ラ・ガール駅に向かって、人通りの少ない暗い高架下を歩いていたときのこと。煙草を巻くために、束の間、目線を落とすと、駅の方から、複数人がはっきりとした歩調でこちらに向かってくる気配がした。あえて落ち着きを装い煙草に火をつけて顔をあげると、短機関銃で武装した警官の群れがすでにすぐ手前まできていた。私は、咄嗟に煙草を地面に落とし、靴裏で踏み消した。この頃、私の体はまだ東京向けの習慣を持っていたのだ。そんな私を訝しむ様子もなく、群れの人数と同じだけの銃口が私の真横を通り過ぎていった。
 生身の短機関銃を目にしたのは、おそらく、それが初めてだった。たしかに、日本の警察も拳銃を携帯しているが、その小さな道具は通常、腰元の革袋に隠されている。生身の短機関銃は、それが人間を殺傷するために開発され製造される機械であることを、つねに誇示している。そして、この機械以外では替えがきかない重要な機能を要請する状況が、現にこの社会に存在しているのだということを、警官の防弾チョッキと相互に補完しあうかたちで、私たちに言い聞かせてくる。すなわち、われわれが銃を撃つのは、われわれにはつねに銃で撃たれる危険があるからだ、と。
 危険という言葉は、状況を白と黒の二色に弁別する機能を有する。危険は待ってくれない。だからこそ、われわれはあらゆる手段をもってこれを排除しなくてはならない。私たちの生の条件が「安全」という語によって定義されるとき、いつでも、ゆるやかな人間の時間のつながりは絶たれ、現在という荒々しい切断面上をこの性急な論理が動き回る。
 月曜日の昼過ぎ、期限が間近に迫った修士論文の準備のためにカルチェ・ラタンのキャンパスに向かうと、大学の周囲が、小機関銃を抱えた憲兵隊によって包囲されていた。以前も、別の場所でテロと疑われる事件が発生したか何かで同様の包囲があり、その際は、学生証を提示することで通行を許可された。だが、今回は、学生証には何の効果もなかった。私はそのとき、彼らの警戒の対象が、他ならぬ私たち学生であることを理解した。
 実際、このとき、ソルボンヌの校舎の中庭では、ガザで起きている大量殺戮の被害者への連帯を示すためのアピールを行なった学生が、大学当局の要請を受けた警官によって制圧されていたのだった。私は、図書館での勉強に倦むと、いつもこの中庭まで降りてきて、煙草を吸う。長く灰色のパリの冬がやっと終わりの気配を見せた3月の末には、建物の影によって三角形に区切られた陽だまりで、学生たちも体育座りの小さな三角形になって身を寄せ合っていた。その同じ中庭で、武装した警官が、テントから男子学生を文字通り引きずり出す動画が、SNSで拡散された。
 サン゠ミッシェル大通りを南に登っていくと、ソルボンヌ広場では、学生たちが校舎内の学生に連帯を示し、パレスチナ国旗を中心に円をなしていた。その周囲を、憲兵隊が、内向きと外向きの二重の円をなして包囲し、私は、カメラを構える観光客や、誰の困難を思っていたのだろうか、眉を顰めて事態を見つめている老人と並んで、4番目の円に連なった。
 事態は硬直し、私は諦めて、行きと反対方向のメトロに乗った。クリスタルの前を堪えて通り過ぎ、アパルトマンのエントランスを抜けると、エレベーターが故障していた。大きく息を吐いて、ノートパソコンと4冊の本が入ったリュックの肩紐を下に引き、背中を丸めて、うねる螺旋の階段を6階に向けて登っていった。

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