良いものを良いという勇気
最近自分にルールを課している。
良いと感じたものは"良い"と発言をすることである。人間、これがなかなか難しい。
かくいう僕もなかなか今までできていなかったなぁと思って、最近ルールを課したのです。ネガティブなことは言えるのにね。
否定というのは簡単なもので、なぜかポロポロを出てくる。今の日本の政権の悪いところを話そうと言われたら2時間でも3時間でも話せる気がする。そのくらい、否定する内容というのはなぜかスルッと出てきてしまう。
人間の心理として、被害者になることはとっても簡単なのだろう。
何かデメリットを話すことによって、「自分は被害を受けている可哀想な人間なのです!」と主張することができる。そして
「そんなひどいことがあったんですね…みんなで手を合わせましょう…!」
みたいな漫画的構図が作りやすいんじゃなかろうか。
でもこの否定の構図って、何も生み出さない気がするのです。あくまで被害者としての立場を獲得するのみ。それ以上は何も生み出さない。これで良い気分になるのはきっと自分だけ。
だから、僕は良いと思ったものを良いという方が、世界はよく回っていくような気がしています。
なぜ褒めることができないのか
先日公開したnoteでは僕の葛藤と嫉妬心についてを書かせていただきました。よくもまぁこんな文章書いたな、自分。
人間嫉妬心や葛藤というものは絶対に持っているもののはず。そういう感情が邪魔して人の良いところを褒めることが難しい。
もっと先に行かれてしまうなんてことを考えてしまう。自分が少し褒めたところでなんら変わらないのに。
こういう心理の他に、否定されたくないという心理もある。
先日こういう本を読みました。
この本で若者の行動の心理について書かれた項目があった。「勝ち馬にしかおもしろいって言えない空気がある」のだとか。
この本では細かく書いてくれているのだが、その項目を簡単にまとめると、今は何が炎上するかわからない時代。良いと言ったコンテンツが炎上してしまうのではないか、炎上後に晒されるのではないかという心理が働いてしまうということらしい。
つまり褒めることはリスクを伴うと考えてしまうのだとか。
わからんでもない。わからんでもないけど、そんなことは滅多にないんじゃないか?
大丈夫、きっとみんな嬉しい
先ほどの"勝ち馬"の話に立ち返るのであれば、勝ち馬の先頭には誰かがいる。
もちろんどこかで嫉妬心を持ってしまったりリスクについて考えてしまう時がある。でもそういう感情を排除して、しっかりと良いものは良いという勇気を持ちたいなぁと最近思うのです。
良いと言われて嬉しくない人はいないはず。小さな積み重ねがきっと自分にも返ってくる。
さて、今日もいいコンテンツを発見して自分を磨きますか。
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