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Ryu's Eye(2012)

Ryu’s Eyes
S aven Satow
Mar. 23, 2012

「だからワープロで打つと、文体もきっと変わってくると思うんだ。これからのワープロは、シーン何番、緊急事態、主人公AとBの感情の系列はこうでと、全部インプットしてあれば、言葉が何百種類もバーッと出ると思うんだ。それを選ぶのは酔っぱらっていてもできるからね」。
村上龍『EV. Café』

 村上龍の眼は同時代をつねに見つめている。彼ほど時代の波を捉えるのがうまい作家はいない。作品で扱ったテーマを眺めるだけで、発表された当時、マスメディア上で話題になった風潮や事件、出来事がよくわかる。同時代的ニュースを素材にして、センセーショナリズムとエンターテインメント性を織りこんだ作品に仕上げる。デビューから今に至るまで変わらない彼の傾向である。

 けれども、それぞれの時代を考える際に、村上龍の作品に言及されることは稀である。出来が悪いわけではない。数々の文学賞を受賞しているように、同時代の中で読まれた場合、彼の作品は非常に訴える力がある。ところが、そこから離れると、魅力が失われる。村上龍は作者と読者が共有する同時代の空気を自明視している。時代によりかかっているとも言える。時代と向き合い、作品を通じて、それを何かと問いつめはしない。時代の表象を取り扱ってはいるが、その本質を浮き彫りにしていない。作品が当時の社会の持つ固有さの一端を具現していないため、時代と共に振り返られることがない。

 『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)は村上龍の作家としての特徴がよく出た作品である。「コインロッカー・ベイビー」と尋ねられて、それが何かと答えられる40代より若い人は少ないだろう。1973年前後、大都市のコインロッカーに乳児の遺体が放置される事件が相次ぐ。21世紀に入ってからも何件か起きているが、この時期にほぼ集中している。その理由の一つに報道の影響が挙げられる。そういう遺体の処理法があるとニュースで知って模倣したケースが少なからず見られる。コインロッカー・ベイビー事件はその時代ならではのニュースだ。『コインロッカー・ベイビーズ』はコインロッカーに遺棄された孤児のその後の物語である。

 コインロッカーを母胎と見立てるなど成長したコインロッカー・ベイビーズの心理や認知が描かれているものの、それを生み出した時代に関する洞察はない。コインロッカー・ベイビー事件は時代との結びつきが強い。言わば、時代の産物である。ところが、作者そんな事件が起きた時代とすませている。

 戦後しばらく実子殺しで最も多かったのが嬰児殺しである。戦後すぐの頃の被害者数は300人もいたが、1977年には187人、80年代より下げ止まり、2004年になると24人にまで減少している。かつて殺人事件の97%が一年以内に解決していたけれども、少数未解決の大半がこの嬰児殺しである。遺棄された嬰児の遺体が発見されて事件と認知されたものの、犯人が特定できなかったという顛末だ。当時の嬰児殺しの動機は、不義・不倫で出産したことで世間体が悪くなる、あるいは社会的に非難されるからである。経済的理由は少数でしかない。これは加害者に祖母が含まれている事案があることからも裏付けられる。世間体の圧力は今日とは比べものにならないほど強い。と同時に、子どもの命が軽い。

 嬰児殺しは、その後も、未婚のまま、家庭が築かれていない状態で生まれた子どもが犠牲になるケースが多い。70年代に現われたコインロッカーへの乳児の遺体放置は、その場所を除けば、それまでの嬰児殺しの延長線上にある。処理に困って手近なところに捨てたのが実情だろう。80年代からの社会風潮の変化などを背景に、嬰児殺しは下げ止まる。コインロッカー・ベイビー事件はこの直前の現象であり、時代を考える一つの素材となり得る。

 主人公を等身大の設定にしていたら、DVや虐待などにより親から離れて暮らさざるを得ない子どもたちをめぐる諸問題が明らかになっている今日につながる作品として、『コインロッカー・ベイビーズ』は位置づけられていたかもしれない。有吉佐和子の『恍惚の人』が高齢者開祖を扱った先見的作品として取り上げられる。そういった作品にもなり得たが、村上龍はそんな気がない。彼の作品は、全般的に、悲観的な装いをしていても、破壊=再生の自由放任的な楽観性がある。ところが、破壊は、往々にして、互換性を欠いた再生と名乗る新たな課題を招く。日常生活では、互換性を維持したまま、調整によって修正していく策がとられる。村上龍には、そのため、『恍惚の人』のようなその後につながる作品を書き得ない。

  時代の表象を捉えることには鋭敏だが、その本質を認識するまでには至らない。これが村上龍の文学である。

 柄谷行人は、『同一性と差異性について』(1977)において、第二作目の『海の向こうで戦争が始まる』を例に、村上龍の想像力について次のように述べている。

 「海の向こうで戦争が始まる」は、この作家の想像力の根がどこにあるかを、第一作よりも明白に告げている。例えば、”基地”の町では、戦争は、「海の向こう」であっても、動物が天変地異を察知するような鋭敏さで感受される。それは反戦的でも好戦的でもない、一つの「気分」であって、この作者の戦争への幻覚にはなにかふつうの作家とは異質な感受性がある。

 村上龍は時代の波の到来に鋭敏である。しかし、それが何であり、なんであり得る家には興味がない。今はこういう状況だと認知できても、なぜそうなのかという問いがない。村上龍の議論は、そのため、しばしば話題性に傾斜したステロタイプなジャーナリズムにとどまってしまう。本質は他のものとの比較によって見えてくる。村上龍はある事件や出来事を描こうとする際、そのものについてはよく調査・取材している。けれども、比較、すなわち通時的・共時的相対化が弱い。コインロッカー・ベイビー事件も、戦後の嬰児殺しの歴史と照らし合わせると、時代の本質の一端が見えてくる。

 今の若手・中堅の作家にも、その本質は不問のまま、時代の波を捉えることに熱心なものも少なくない。エンターテインメント系は言うに及ばず、阿部和重や平野啓一郎なども含まれるだろう。けれども、彼らは、時代の「気分」への鋭敏さ点で、村上龍に遠く及ばない。

 村上龍は社会的問題に積極的に取り組んできた作家である。同時代の事件や出来事を作品に取りこむだけでも、タフな仕事だ。大いに評価できる。けれども、それが社会化したことへの洞察が弱い。その事象が時代とどう結びついているのかが作品から伝わらない。その絵に描かれた龍に眼がない。彼以後の作家に望まれるのは龍に瞳を描き入れることだ。
〈了〉
参照文献
柄谷行人、『反文学論』、講談社学術文庫、1991年
河合幹雄、『日本の殺人』、ちくま新書、2009年
村上龍=坂本龍一、『EV. Café』、講談社文庫、1989年
村上龍、『新装版 コインロッカー・ベイビーズ』、講談社文庫、2009年 

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