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「校外の出来事にはタッチしない」って、おいおい!…とわたしなら思う話

かつて、ameba blogに記した、2件のログをひとつにまとめて、以下お送りします。
自分という者の、偏屈な!?考え方が露呈されていると思う。とりあえず、お読みいただけるとうれしいです。



地域からの、『お宅の学校の子がピンポンダッシュをしていくので、学校で指導してくれ』という声に対して、

「校外は学校の管轄外なので」という理由で、指導も、事後指導もしない。

…というケースについてどう思うか、という話を、昨晩、旧ツイッターで見かけた。

わたしは、正直、「指導も、事後指導もしない。」に、読んだ瞬間、違和感を感じてしまった。

(実際、そんなニュアンスでレスも送った)

でも、違和感どころか、思わず「口あんぐり」になってしまったのは、


「迷惑だと思うなら、どうぞ警察に相談してください」

「朝に一言いうだけ」

などのレス。

たまたま自分は、過年度も、そして今年度も、安全主任という役割を担ってはいる。

だからこそ、くだんの話に敏感に反応した側面もある。

だが、それを差っ引いても、

「校外は学校の管轄外なので」

という線引きのもとに、それゆえに、

『だから、学校では指導をしない』

といったニュアンスの考え方には、わたしは、どうしても、納得できない。

だから例えば、もし自分の勤務校の管理職がそう言いだそうものなら、

わたしは必ず、反旗を翻す。


学校での指導が、なかなか入らない児童はいる。

どこの学校にも、たぶん、いる。

学年にかかわらず、いる。

でも、そんな児童のふるまいに関して、言うなれば、

『校外での出来事には(校外だから)タッチしない』

という言い方、発想は、それは誤った線引きではないか。


ただ、ここまでわざわざ自分の考えを視覚化してみて、気付いたのは、

たとえば、とある中学生が他校の中学生とトラブルを起こして傷つけたとか、

あくまでも例示だけれど、そこまで至ると、警察のご厄介になるべき領域と、

学校でするべき対応と、線引きをする必要はあるだろうし、実際、そうしているだろうと思う。


「ピンポンダッシュ」という「こと」の軽重は難しいところもあるけれど、

中学校教員をしている妻といま話した中でも、その難しさは確認したけれど、

わたしがいまこだわってしまっているのは、ここではっきり表明したいのは、

  <物理的な意味での校内/校外>

という、あまりにも単純な線引きで、教員/学校が関わったり、関わらなかったりしていいのか、

という、その1点。


現実的な希望として、とりあえず、どうか、世の中の管理職のみなさまには、

そんな単純な線引きには基づかない、賢明なご判断をお願いしたいところ。

学校というところは、地域と無関係ではいられないのだし、

むしろ、地域の中に、学校があるのだから。

地域と連携を努めこそすれ、あまつさえ、

「これは校外の話なので知らん」は、マズいって!

違うかな。

違うかな??



追記)

冒頭に紹介したツイートに対する、たとえば、

「迷惑だと思うなら、どうぞ警察に相談してください」

のような、恐らくは現役の教員によるレスを見ながら、わたしは正直、まさにここに、


『だから教員は世間が狭いんだ』


とよく言われてしまう理由の一端が、実は見えていやしないかと、ふと感じた。

どうなんだろう?


「朝に一言いうだけ」って、

解決する気がないなら、はなから一言も触れてくれるな!害悪でしかない。

『逆アナウンスメント効果』を(第2、第3の事件を誘発しかねないと)、
発想できないのか。



…以上、過激な前半でした。
以下、さらに過激な後半につづきます。すみません。


おととい金曜日にここに挙げた意見について、ぼんやりながら、考え続けている。
おおむね、自分の感覚はおかしくないと思う(大事にしたいと思っている)ものの、くだんの旧ツイッターでは、自分とは逆の意見が多かったと感じていることもあり、ほんとうにまっとうな考え方なのか、おぼつかない気持ちでいた。

話をいったん変えるが、ずいぶん前にメーラーへ届いていたメールを、昨日ふと開いてみた。わけもなく。

提言|赤坂真二 令和版、尊敬される教師とは? 【教師という仕事の価値を高め、失われた自信と信頼を取り戻すために 今、求められる教師像とは? #05 】|みんなの教育技術 (sho.jp)


赤坂先生によるお話。
実はこの週末まで意図的にとっておいて、いざ、昨日、満を持して、拝読した。

部分的な抜粋を赤坂先生、小学館さん、お許しいただきたい。

>つまり、今、学校が再びその存在価値を高めるには、養う機能を充実させる必要があり、それには教師が子どもと保護者から再び尊敬される存在になることが重要です。ただし、昭和の「尊敬される教師」に求められたものと、令和のそれに求められるものは少し違うと思います。令和の「尊敬される教師」に求められるものは何かというと、それは信頼です。まずは信頼されなければ、尊敬されないからです。

(抜粋おわり/アンダーラインは私による)

部分的な抜粋に、あえてとどめるわけですが、赤坂先生のこのお話は、腹の底から納得。
そのお話から、自分の二日前のログの内容に軟着陸するならば、

保護者から、地域から、信頼されることをもしも学校が目指すならば、

「それは学校の敷地外のことだから、関わりません」

という姿勢は、「信頼」とは、真逆だよね。

また、
「それは学校の敷地外のことだから、関わりません」
という論理を学校が使うという事は、すなわち

「きみのその行動は、学校の敷地外のことだから、関わりません」
と、本人に言っていることに、等しい。
(直接言わないなら、それだけ、余計にたちが悪い)

つまり、
『わたしたちが関わるのは、学校にいる間のきみのことであって、
 きみそのもののことではない』

と、そう言っているのに、等しくないか??
そう解釈されても、仕方なくないか??

なんてことを、週末に考えました。
もっと穏健な表現で記すべきだったかもしれませんが、あえてこのまま残します。

(じゃあ、24時間子どもと関わるのが正解なのか?、といった、極論をブンブン振りかざす方が、ここに訪れないことを、切にひそかに願います)


…というわけで、おのれの考え方の偏屈さを、気まぐれにあえてこちらでも披歴してしまいました。
noteのみなさんに、どう響くのか…。不安。

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