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<戦時下の一品> 黒い牛乳瓶

 本来、透明な牛乳瓶が、透明なガラスをつくる材料不足から、さまざまな色のガラスくずで作られた、黒い牛乳瓶が太平洋戦争末期には登場しています。

光の具合で濃い緑や茶色にも見える「黒い牛乳瓶」

 実際に牛乳を入れるのは気が引けたので、白い紙を入れてみました。

口から見た雰囲気
横からだとこんな感じ

 牛乳瓶が透明のものになったのは、腐敗事件などをきっかけに1927(昭和2)年「牛乳営業取締規則」が改正され翌年から施行されたことに始まります。殺菌の義務付け、着色瓶の禁止、無色透明の広口瓶で紙栓をすることとされました。そして牛乳を飲む習慣も、1935(昭和10)年前後に大手メーカーが出そろい、一般に浸透していくようになったということです。
 一方、生産量の低下を受けてか軍需転換のためかは分かりませんが、1940(昭和15)年10月公布の「牛乳及び乳製品配給統制規則」で、牛乳は母乳が足りない満一歳以下の乳児や病弱者に配給(有料)されるだけになり、11月1日から切符制度が実施されています。生産量も落ちて、限られた人にしか与えられないことで、管理はやりやすいから黒い牛乳瓶もやむを得ないということになったのではないでしょうか。

黒い牛乳瓶もやむを得ず認めたか

 このほか、日中戦争が始まり金属が軍需優先になると、王冠も紙キャップに切り替えざるを得なくなって広口瓶が広まったという説もありますが、はっきり分かりません。また、牛乳のタンパク質の8割を占めるカゼインが飛行機に使う接着剤になったということで、これも軍需優先となった一因という指摘がありました。しかし、時期は日中戦争から間もなくのころか、それとも終戦間際の木製飛行機の接着のためか、こちらも詳細は不明です。
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 調べてみると、意外と身近なことは歴史に残りにくい、という証明のような内容となってしまいました。黒い牛乳瓶一つからだけでも、当時の生活のさまざまな断片が見え、また、謎も出てくるのです。


 

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