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【豊かさという気持ち悪さ】夢を見過ぎている人が多い

豊かさを求める気持ちは、いつの時代も同じなのだなと感じます。今は食べ物に困らないし、好きなものも何でも買える。行きたいところにも行ける。けれど、人はまだ何かを求めている。渇望している。それって、何故だと思いますか?この永遠ループはいつまで続くのか。それをお伝えします。


政治家・麻生太郎氏の発言

麻生太郎氏は、良くも悪くも、言葉が過激に見られがちだと思います。ストレートなんですよね。そんな彼が、豊かさについて語る話がありました。

「俺たち子供の時、全校で革のランドセルを背負っている学生は一人だった。顔も名前も言えるくらい羨ましかった。小学校6年の時に革のランドセルじゃなかったのは、俺の兄弟だけ」

高校生からの質問「豊かさの基準とは?」

「でも今革のランドセルを持ったって、豊かと感じないよ。みんな持ってるもん。だから何を基準にするかは難しいんだ」

高校生からの質問「豊かさの基準とは?」

基準なんて存在しない

この麻生氏の伝えたいこと、きっと誰もが経験してきたいと思います。私が思うに、豊かさとは、自分に欠乏しているものがあるからこそ出てくる言葉なのだと思うのです。よって、基準はあってないようなもの。自分の中でしか存在しないから。思い込みにも近いですね。

足りないから、満たしたい

人や周りを見て、「足りない」と感じた時、そこで感じた「差」に豊かさを見出すかと思います。何も感じていないのに、豊かさは求めません。そもそも、自分の中で定義ができませんから。

豊かさは雲を掴むかのよう

豊かさそのものがあるわけではない、私はそう結論づけています。少なくとも、人それぞれ。基準はつくれるわけがない。まるで、幸せの定義そのものを語るのと同じだから。豊かさを感じるなどの理由には、劣等感、自尊心の喪失などが考えられる。だから、夢見て、満たされたくなる。これを幻想といわず、何だろうか。

比較から生まれる感情

豊かさを追い求めている人ほど、比較している人だと思っています。満たされていないから。豊かさなんて言葉、ポンポン出てくるものでもないと思うのです。まるで標語かのように。冒頭でお話した、麻生太郎氏へ質問した高校生は、豊かさを標語のように総称して考えていたのかな?いや、でも高校生でこれを考えた時点で、深いものを感じますね。そもそも、真面目な学生というのは、私たち社会人よりも頭がいいと思っています。麻生氏に聞くあたりのセンスもいい。面白いなぁ。

話は逸れましたが、人を見ているから、欠乏を感じるだけだと思います。羨ましいから欲しがったり、嫉妬したりする。ただ、それだけです。それを美化して、豊かさと言うのでしょう。

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