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【生きた言葉の力】私の乾いた心を潤してくれたもの

私はここ3ヶ月ほど、何かを求めるように猪突猛進していた。それはお金なのか、自分を満足させたいのか、今となってはわからない。今この記事を書いているのは、朝の6:54。実は5:25に目が覚め、聖書を読んでいた。なぜ急に読み始めたかはわからない。わからないけれど、読みたくなったから読んだ。適当に開いたページが読み始め、気がつけば夢中になっていた。私はこの3ヶ月ほど、求めても求めても得られなかった心の満足を、先ほどの聖書ですべて得られた。


人生の彷徨い人

「自分の欲望のままに生きたい」と、昨日までは思っていた。生きづらい世の中だからこそ、自分は幸せを貪欲に求めていきたいと本気で思っていた。そんな私もかつては、教会でバプテスマ(洗礼)を受けた一人だ。その当時は、身も心も清くして生きていこうと思っていた。けれど、世の中の魅力に心奪われ、バプテスマを受けてから半年も経てば、世に染まっていた。のめり込んでいた。それはもうやめようと思ったのに。また私は、何かを求め続ける人生の彷徨い人になっていたのでした。それが昨日までの私。

何のために生きている?

私は時々本気で思う。「何のために生きているのか」と。ここ最近、意識を高くして求めていた経済力なのか。確かに欲しい。けれど、そのために生きているわけではない。では、なぜ今もこうして生きているのか。いや、生かされているのか。神さまをかつて知っていた私から言うと、人は生かされているのだ。工芸師と粘土の関係のように、神さまと人間(被造物)なのだ。そんな私は、なぜ今も生きているのだろう。私は何のために生きているのだろう。どんな価値があるのだろうと。それを考えると、惨めな思いすら出てくる。もう嫌だ、疲れたと。

自分のために生きていると苦しい

今朝、久々に聖書を読む中で、私は気付かされた。今の自分は「自分のためだけ」に生きていると。一見当たり前のように聞こえる言葉だが、実は生きにくくなる考え方だ。それをふと今朝気付かされた。自分のためだけに生きているから、人に対して愛が冷えてくる。私はこういった冷たさを、実の妹にするだろうか?そんなわけがない、妹が大好きなので、冷たくするわけがない。何かあれば助けたいし、何も用がなくても会いたい。好きだから。大切だから。それと同じこと。血が繋がっていない人へはどうだろう?これが冷え切った人間だ。

綺麗事のように聞こえるけれど

「他人のために生きろと?」そんな疑問すら一瞬わく。それほどまでに、人を愛することは難しい。基本的に人は、自分ファーストだから。他の人はどうでもいい、自分を一番に幸せにしたいと。なんなら、比較のためにも、人はどうでもいいと。これが悪徳な考えだとわかっていながらも、人はどうしても自分を優位にさせたく、自分を過大に評価する癖がある。自分、自分、自分、だからだ。これは私もだ。人のために生きることができる人は、美しい。あまりにも自分とは違うから、綺麗事のように見える・聞こえる。けれど、本当は違う。自分があまりにも自分本位なだけだ。

何か勘違いしていた

私はこの3ヶ月間、何を走り続けてきたかというと、記事を書くことだ。このnoteのように。それは楽しかった。自分には書く力があると思ったから、そして、文字で表現することが喜びだった。今もそう。けれど、この能力すらも、神さまが私に賜ったもの。私の力のようでいて、神さまが授けてくれたもの。もっといえば、この世の人たちは、神さまから賜った物以外には何もない。その容姿も、生まれも、境遇も、才能も、何もかも。すべてが神さまが意図して賜ったものだ。これに気付かされた今朝、「私は一体何をしているんだ」と思い知らされた。

自分の賜物を使い果たしたい

何のために私はこの容姿、生まれ、境遇、才能を賜ったのか、自分の欲望のために生きるためか?違う。そんなことは聖書には何一つ書かれていない。自分本位が幸せに生きるための道だとは言われていない。それどころか、身を滅ぼすことになると言われている。警告が書かれているのだ。そして、幸せになるには、他人を愛することからだと。これはあくまで私なりの要約だが。これまでもずっと聖書を学んできたので、理解しているつもりである。それでも忘れていた私なのだから、本当のところは、あまりひけびらかすのはよろしくないが。何が言いたいのかと言うと、自分の賜物を誰かのために使うことこそがベストだと。

私はこれからどうしようか

自分の成功を求めても、自分の賜物は真価を発揮されないと思う。実をいうと、私はnoteを通して「出版」が叶う夢を見ていた。欲望でもある。チャンスのためにも、WordPressから移行して、多くの人に見てもらえるようにとnoteを選んだ。そのために、がむしゃらにnoteを書いてきた。目標があるのはやる気が出るし、行動すればするだけ積み上がっていくのは楽しい。そんな私も、どうやらここにきて、もう一度考えを直した方が良いと思った。自分の欲望のためにこの力を使うのではなく、人のために使うと。つまり、目的を設定しなおす必要がある。

心を潤すことができる人

今朝の聖書を通して、私は心が潤された。そして、潤ってから気づく。ここ3ヶ月間がむしゃらに頑張っていた間は、ずっとずーっと心が乾いていたのだなと。自分が枯渇していたことすら、気づかなかった。もっとヘトヘトにならないと、気づかなかったのかもしれない。それくらいだった。そんな今だからわかる。マインドセットは所詮、一時的なカンフル剤レベルだと。モチベーション維持にはいいけれど、根本解決にはならない。心を潤すことができるのは、聖書の言葉であり、それを書いた神さまだけだと。

神さまは存在する

思い違いをしてはならない。神さまは存在する。生きている。人間がつくりだした物や概念なんかではない。そんなものはすべてまやかし。聖書の神さまだけが、本当の神さまであり、唯一生きておられる人。私は別にどこかに所属している宗教家でもないし、いたって普通の31歳だ。強いて言うならば、生きるための目的を探し続けてきた人。20代はすべてそれに捧げてきたも同然。今思えば、20代で聖書に出会っていたら、どんなによかっただろうと思う。それくらいに、聖書一冊で人生は変わる。自分の心を満たしてくれるから。そして、「生きよう」と活力を与えてくれるから。

そんな今朝のホヤホヤな感想でした。私の聖書は、下記の通りです。軽紙タイプなので、比較的に軽いですし、読みやすい文字サイズで気に入っています。私の人生のバイブル、そのまんま聖書ですけどね。今日も素晴らしい一日となりますように。

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