名越康文「驚く力」引用

「ほめて伸ばす教育」ということが言われます。でも、「ほめてあげる」という姿勢には、「ほめる人」の感動が感じられません。上から目線で、心が動かされている感じがありませんよね。一方、本当に上手に人をほめる人というのは、必ず非常に豊かな「驚く力」を持っています。
名越康文「驚く力」p.30

というのも、ほめる人が驚いている かどうかは、子供や生徒など、教えられる立場の人に必ず伝わっているからです。そして、ほめる側の心に「驚き」が伴ったときの「ほめ」には、そうでないときの何倍もの力が宿る。つまり、「驚き」には、人を導く力があるんです。
「驚く力」名越康文p.30

つまり、僕らはみな多かれ少なかれ、自分の認識の枠の中で生じた妄想を繰り返し確認しながら生きているということです。言い換えれば、僕らの感じる「退屈」や「倦怠感」というのは、リピートされた妄想によるものだと言ってもよいでしょう。
「驚く力」名越康文p.34

しかし、こういうふうに無意識のうちに「どうせ、良いことなんか起きないだろう」と高を括って未来を値引きするのって、実は恐ろしいことなんです。というのも、こういう未来の値引き"は、しばしば実際の未来を自分が予測した(マイナスの)
方向へと引っ張ってしまうからです。
「驚く力」名越康文p.36

さらに言えば、三〇点、四〇点といった「予想外に悪い未来」がやってきたときも、ノーガードのほうがむしろ、柔軟な対応ができます。それはおそらく「意外な状況」を楽しむ余裕があるからです。ノーガードは、逆境への備えという点でも実践的なんです。
「驚く力」名越康文p.39

僕らの行動は常に過去によってかなりの部分、コントロールされています。だからこそ、それを断っておくことで、自由に、身軽になれる。仏教では「因縁(過去)を断つ」という言い方をしますが、過去の因縁を断ち、値引きなしの未来〟に立ち会う。
「驚く力」名越康文p.39

傷つかないようにガードを固めるのではなく、子供のように、目の前に起きたことに驚き、意外な出来事を楽しんでいく姿勢で臨む。そうした「驚く力」を全力で引き出す姿勢は、 人生を楽しむという観点から言って、間違いなくデメリットよりもメリットのほうが大きいと思います。
「驚く力」名越康文p.41

僕らは人から押しつけられるよりも、自分から自発的に取り組むほうが、何倍も深い学びを得ることができます。
「驚く力」名越康文p.46

例えば動物園で飼われているライオンですら、餌を「ほら! 食え!」と口元に押しつけられたら拒絶します。それくらい、生命の根源にある「自発性の力」は強い んです。
「驚く力」名越康文p.46

やる気、熱意、情熱といった自発性は、基本的には尊いものだと思いますが、その「熱」にかられて燃え尽きてしまったり、自分に向いていない場で努力したりということを重ね、結果として不全感ばかりを募らせるようであれば、本末転倒ですよね。
「驚く力」名越康文p.47

例えば、子供が砂遊びに熱中するように、わき目も振らず 「今、ここ」に集中するような情熱であれば、あまり問題になることはありません。 「今、ここ」を楽しめるということは、そこに驚きと発見があるということです。そういう「驚く力」にあふれた「今、ここの情熱」は、その場で完全燃焼する
p.48

ところが、傍目に見る分には同じように集中して物事に取り組んでいるように見える人の中には、燃え尽き、疲労困憊に陥ってしまう人もいます。また、長年の努力にもかかわらず結果が伴わないことで、「どうせ自分は何をやっても報われない」と後ろ向きな気持ちに囚われている人も少なくありません
p.48

そういう人は自分の行動が「今、ここの情熱」ではなく、「過去の渇き」に囚われたものでないかということをチエックしてほしいんです。
「驚く力」名越康文p.48

「過去の渇き」というのは、「過去にやり残したことを、今、やり直そう」という心の動きです。 しかし、「今、目の前で起きていること」は、「過去にやり残したこと」どれだけ似ていたとしても、別の体験です。ですから、「過去の渇き」に執着している人は、どれだけ求め、行動しても、常に満たされない気持ちが残る。それは、目の前の現実とはまったく無関係の「過去にやり残したこと」をもう一度やろうと執着しているからなんです。
「驚く力」名越康文p.48

親に愛されなかった人が、大人になってからも恋人や、周囲の人間に対し過剰な愛情を決めようとしてしまうという問題は、しばしばメディアでも取りあげられているので、御存じの方も多いと思います。これは過去の渇きのもっとも典型的な例と言えます
「驚く力」名越康文p.49

ただ、やはり「過去にやり残したことを、今、やり直そう」という動機で物事に取り組むと、どうしても、「今」に百パーセント集中することができなくなってしまうんです。
「驚く力」名越康文p.50

一見、熱心に物事に取り組んでいるように見えても、意識は常に「過去」に縛られているから、目の前の現実に対する集中力は失われるし、新鮮な驚きや感動も生じてこなくなる。
「驚く力」名越康文p.50

「やりたいことをやるのはすばらしいことだ」というお題目ばかりが一人歩きする世の中では、時折、自分の熱意が「今、ここの情熱」なのか「過去の渇き」なのかを十分に吟味することが非常に大切だと思います。「驚く力」名越康文p.51

「口が滑る」という言い方がありますが、無意識のうちに勝手に話を大きくしてしまったり、話を「盛って」しまったりという経験は、誰にでもあると思います。こうした「舌が勝手につく嘘」は、実は「過去の渇き」と密接に関係しています。
「驚く力」名越康文p.52

こういう「舌が勝手につく嘘」は、誰しも身に覚えがあるものだし、ちょっと話を大きくしたり、尾ひれをつけたりするだけであれば、実害はないように感じます。しかし、これを放置しているとボディブローのように、自分の心にダメージを蓄積してしまうんです。
「驚く力」名越康文p.53

友人と飲み会に行った帰りがけに、えもいわれぬ「挫折感」を覚えた経験はないでしょうか。飲み会で楽しく話したときほど、帰り際、別れ際に不全感、挫折感を覚えてしまう。たいていの場合、僕らはそれを人と別れることによる「さびしさ」と理解しがちなんですが、実は、宴席において「舌が勝手につく嘘」を重ねてしまった、後悔による疲れであることが、少なくないんです。
「驚く力」名越康文p.53

過去の渇きに支配されると、僕らは自分を大きく見せようとしたり、やたらと大げさな夢を語ったり、景気のいい話で都合の悪いことを隠そうとしたりする。その結果、身体と心に余計な疲れをためてしまうんです。
「驚く力」名越康文p.54

身体が二割から、場合によっては五割ぐらいまで話を盛ってしまっている。そして、家に帰って一人になって会話を思い起こしてみると「余計なことを言い過ぎた」「できもしないことを口にしてしまった」と後悔し、うつに突入してしまう。こういう悪循環を波のように繰り返しているんです。
p.55

しかし、ここで述べてきたうつの彼が目立つ人の場合、むしろ「アップした (し過ぎた)気分をフラットに戻す」 アプローチが必要なんです。
「驚く力」名越康文p.57

「過去の渇き」に支配されているとき、僕らの身体は少し前のめりになったり、かすかに喉元がつまる感覚がしたり、お腹が少し硬くなったり、横隔膜が「ぐっ」とせりあがってきたりといった感覚が生じます。(中略)こういうとき、僕らの舌は嘘をつきはじめるんです 。
「驚く力」名越康文p.57

このとき、注意してほしいのは、「反省しない」ということです。というのも、「あ! しまった! 大げさな言い方しちゃった」とか「また熱くなり過ぎてしまった…」と反省してしまうと、自分の中にある熱意の源が「過去の渇き」なのか「今、ここの情熱」なのかの区別がおろそかになるからです。
p.58

身体感覚は、意識すればするほど、磨かれていきます。最初のうちは、怒りの感情のような大きな心の揺らぎしか感知できなかった人でも、だんだんと舌が人格を持って勝手に話しはじめるときの、微妙に浮ついた身体的な違和感に気づけるようになります。
「驚く力」名越康文p.60

「なんであの人は私にこんなことを言ったんだろう?」と思い悩んでいる間は、僕らは自分のさびしさを相手のせいにしています。「過去の渇き」に支配されているとき、僕たちはあらゆる問題の責任を他人にかぶせてしまっているんです。
「驚く力」名越康文p.61

「こんなことを言ったら、傷つけてしまうかもしれない」
僕らはしばしば、コミュニケーションの中で「相手主体」で過剰適応を起こしています。僕らの身体の外側に「こうあるべき」というような正しいコミュニケーションの枠組があるかのように思い込んでいる。
「驚く力」名越康文p.61

自分の身体感覚を基準にコミュニケーションを取ったほうが、実践的です。例えば人と話しているとき、ふと前のめりになっている自分に気づく。背筋を伸ばしてゆっくり息を吐いてみると、自分がある話題に執着していたことに気づいたので、一呼吸置いて、次の話題に移る 。
「驚く力」名越康文p.62

「過去の渇き」に支配されていると、身体(土壌)の状態が「今、ここ」からどんどんズレていってしまいます。 例えば実際にはカンカン照りなのに水をあげなかったり、大嵐なのに小さな苗木にカバーをかけるのを忘れていたりしていると、土壌は荒れ果作物は育ちません。 土壌が荒れれば荒れるほど、僕らは「今、ここ」の現実に 向き合うことができなくなり、頭の中にある「過去」を果てしなく妄想的にリピートすることに夢中になるという悪循環に陥ってしまうんです。
「驚く力」名越康文p.63

そうやって日々、自分の身体感覚に向き合っていると、僕らの「情熱」の七割から八割ぐらいまでは、身体(土壌)の状態に左右されていることに気づきます。
「驚く力」名越康文p.63

客観的な条件として考える限り何の不安もない」というのは、一見すばらしい選択のように見えます。しかし、それは退屈な選択である可能性が高い。なぜなら、そこには「驚き」がないからです。
「驚く力」名越康文p.64

僕らが人生の決断において重視すべきなのは、頭で考えるレベルの「判断」よりも、身体感覚レベルの「納得」なんです。
「驚く力」名越康文p.66

別の言い方をすれば「感情のベール」というのは、僕らの固定観念や思い込みといった「枠組」そのものと言ってもいいでしょう。だから、感情の波を静めることができれば、僕らはベールの向こう側にある「世界そのもの」に触れることができる。
「驚く力」名越康文p.74

僕が多くのクライアントとお会いする中で得た実感は、それに近いものなんです。 つまり、怒りや不安を振り払うことに成功し、ある程度心を落ち着けることに成功した人は、けっこうな確率で、その人がそれまで想像したこともないぐらいの力や、創造性を発揮するようになる。
「驚く力」名越康文p.75

不安にかられたときの状況判断は「狭い」だけではなく、「歪んでいる」場合も多いんです。 判断を歪ませるのは、その人の「欲」 です。 不安にかられた人は「自分がこうなってほしいという願望」と「自分の思いどおりにはならない現実」 の間を、無理やり妄想によって埋めようとするんです。
p.78

一〇万円以上のエステ一〇万円以下のエステをはっきり分けるのは「痛み」である。高いエステは痛くなければお客さんが納得しない。針を刺すとか、しみるとか、刺激が強いものでなければ、高いお金を取るのは難しい、という話でした。
「驚く力」名越康文p.85

僕らの心が、痛みを含めたあらゆる「刺激」を渇望している、という心理がある
「驚く力」名越康文p.85

忘れてはいけないのは、僕らは実際に起きていることとはまったく無関係に、脳内で妄想することによっていくらでも刺激を作ることができる、ということです。実際には何も言われていなくても、「あの人が私の悪口を言っているかもしれない」と妄想的な「対人刺激」を作りだしてしまった経験のない人はいないでしょう。
「驚く力」名越康文p.86

心は良い悪いを問わず刺激を求める
「驚く力」名越康文p.85

話を聞いてみると、途中でやめてしまう人のほとんどは、瞑想のやり方を間違えているわけではないことがわかります。むしろ、比較的、上手にやっている人ほど、なぜかあるタイミングで、ぱたりとやめてしまう。それは、瞑想によって心が静まっていくことを、僕らの心は望んでいないからなんです。
p.87

ですから僕の心理学ではひとまず「自分」と「心」 とを分けて、「心とは、つきあいにくい隣人である」と考えることにしています。
「驚く力」名越康文p.87

僕らの心は刺激がなくなってしまうことを無意識のうちに恐れ、事実無根の妄想を使ってでも、心に刺激を提供し続ける。心は、無感覚の恐怖より、悪い刺激で苦しむことを無意識のうちに選んでしまう。
「驚く力」名越康文p.88

例えば、ネットの書き込みで自分の悪口を一回見ると、もっと見たくなりますよね。悪口なんて、絶対に悪い刺激に決まっている。にもかかわらず何度でも見ようとして、案の定、傷ついてしまう。馬鹿みたいですよね。でも、これは心というものが持つ、かなり普遍的な習性によるものなんです。
p.88

僕らの心は良い・悪いという価値判断を抜きに、ただただ刺激を求める傾向を持っており、「平穏に落ち着いた状態」よりも、「もっと怒りたい」「もっと傷つきたい」という方向に振れてしまいやすい。
「驚く力」名越康文p.88

そうやって「延々とより強い刺激を求めるけれど、いつまでたっても満足できない」状態のことを、僕らは「退屈」と呼んでいるんだと思います。
「驚く力」名越康文p.90

そして、そうやって「退屈」を紛らわせて、刺激に依存していく過程で僕らの「驚く力」は致命的に損なわれてしまうんです。
「驚く力」名越康文p.90

仏教では心の状態を水面に例えることがあります。水面がまったく波立っていないときには、水面は鏡のように、空にある月を真ん丸に映します。
「驚く力」名越康文p.90

僕らの肉体や精神のパフォーマンスは、刺激に酔っているときには確実に低下し、心がスッと静かに落ち着いているときには、自他ともに驚くほど高まります。
「驚く力」名越康文p.90

ところが先に述べたとおり、僕らは心を落ち着けるよりは、心を波立たせる刺激を求めてしまう傾向を持っています。 僕が臨床家としてカウンセリングを行ってきた経験から言って、少なめに見ても七~八割の人は、過剰な刺激を求めることを無意識のうちに良しとしていました。
「驚く力」名越康文p.91

しかし、現実には、僕らの社会は、僕ら一人ひとりが刺激依存症にならなければ成立しないような構造になっています。
「驚く力」名越康文p.92

実際に傷つくようなことを言われたとしても、その言葉そのものより「こんなことを言うということは、この人は私のことを嫌っているに違いない」という脳内妄想のほうが、より僕らの心を大きく、継続的に揺り動かします。
「驚く力」名越康文p.94

僕らはよく、不満をもらします。 上司が嫌だ、恋人がひどいことを言った、子供が言うことを聞かないと口にします。しかし、僕らはそういう不満を口にすることによって「悪い刺激」を自ら再生産していることに目を向けておく必要があります。
「驚く力」p.95

だから、非常に逆説的なんですが、引き込もりの人の心は決して退屈していないんです。いわば自作自演のホラー映画を作って脳内で再生し、それをずっと自分で観ているようなものです。そうやって自分の手で妄想を作り、自分の心にすさまじい刺激を絶え間なく与え続けることで、→

退屈を紛わせながら日々を過ごすという悪循環の中にいるわけです。
「驚く力」名越康文p.95

では僕らはどうやって脳内刺激を静め、その悪循環から脱していけばいいのでしょうか。まず自覚しなくてはいけないのは、僕らは生まれてからずっと、慢性的に刺激心を翻弄されてきたため、「刺激の少ない状態」というのをほとんど思い出せなくなっている、ということです。
「驚く力」名越康文p.96

だいたい、心を傷つけ、波立たせてしまうのは言葉や声の妄想です。
「驚く力」名越康文p.97

幼いころ、親からかなりの虐待を受けた女性がいます。しかし彼女は今、非常に明るく、立派な社会人として、日常を過ごされています。むしろ平均的な人よりも「打たれ強い」といっていいぐらい、心の芯が強い。しかも決して鈍感なわけではなく、人の気持ちの機微にもちゃんと対応することができる
p.103

感情に振り回されやすかった女性が、出産を契機に芯のぶれない、強い女性に変わるということがあります。これはもしかしたら、→

それまで「自分の身体や「心」を自分自身と同一視してきた女性が、子供に自分の本体を託してしまうことによって、自分の身体や心に振り回されずに生きることができるようになった、ということなのかもしれません。
「驚く力」名越康文p.106

つまり、世界の豊さに驚き、学び、成長することそのものを楽しむのではなく、「今の自分」の小さな承認欲求を満たすために、物事に取り組むようになってしまうんです。
「驚く力」名越康文p.139

家族や恋人との会話も同じです。恋人とのコミュニケーションのほとんどが、互いを支配しようとするパワーゲームに陥りがちであることは、読者の皆さんには改めて説明するまでもないでしょう。
「驚く力」名越康文p.147

僕らが日常的に交わしている「世間話」のほとんどは、実は互いに「私の気持ち」を相手に飲ませようという「駆け引き」に埋め尽くされています。互いに「私のことわかってよ」「私の言うことを聞いてよ」と我の張り合いばかりしている。
「驚く力」名越康文p.150

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