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インクルーシブ哲学へ③:相手のことを知るとは何か?

▲前回


2023年11月3日

■イベント:映画『僕とオトウト』上映会&哲学対話+監督と哲学者たちによるトークセッション
■場所:かえつ有明中学校
■主催:一般社団法人 こたえのない学校 FOXプロジェクト
■協力:NPO法人 こども哲学おとな哲学 アーダコーダ


映画「僕とオトウト」の冒頭で、髙木佑透監督は、重度の知的障害をもつ弟、壮真さんのことを「知りたい」と言っていた。

相手のことを知るとは何だろうか?

相手のことを知るとは、相手がしたことの理由を知ることだろうか。
(壮真さんがトースターで危険ないたずらをした理由を知ること?)
相手のことを知るとは、相手がしたいことを知ることだろうか。
(壮真さんが家族でお寿司を食べに行きたいということを知ること?)
相手のことを知るとは、相手の考えを言語化できるということだろうか。
(壮真さんが考えていることを言葉で解釈できるようになること?)

たとえば、認知症の人と一緒に住んでいるとする。
認知症の人のことを知るとは、何だろうか?

一緒に住んでいる認知症の人が、過食をしているとする。

満腹感を感じにくく、空腹感を感じつづけているという理由は知っている。
食べたがっているという、相手のしたいことは知っている。
「食べたい」というふうに、相手の考えを言語化できる。

すると、それで相手のことを知っていることになるのだろうか。
僕にはそうは思えない。

この人は本当は食べたくなんかないんだ。そういうふうに知ろうとするしかたがあると思う。

そういうふうに知ろうとするとき、私は想像力を使って、相手の人格を最大限に発揮させている。
この人が認知症でなく、本人の人格が最大限に発揮されていたら、もう食べようとはしないはずだ。
だから、過食は止めてあげるべきだ。

公共の場所で服を脱ぎはじめたら、止めてあげるべきだ。
この人が認知症でなかったら、ここで服を脱ごうとなんてしないはずだ。
そのとき、私は想像力を使って、その人の人格を最大限に発揮させている。

そこに倫理と尊厳というものがあると思う。
幸せに生きてほしい、尊厳をもって生きてほしい、そう願って想像力を働かせる。

髙木佑透監督は哲学対話の中で、壮真さんは撮られたくないときには意思表示をするから、そういう意思表示がなければ撮っていいと判断したと話していた。

壮真さんの障害は、認知症とは違い、生まれつきのものだ。
認知症の場合には、その人が認知症でなかったときの記憶を頼りに、想像力を働かせることができる。
でも、壮真さんの場合、頼りにできる記憶がない。
だから、想像力を使って壮真さんの人格を最大限に発揮させることは、きわめて難しいだろう。
しかし、それは不可能なことだろうか。

僕には、壮真さんなら本当は撮ってほしくなかったかもしれないシーンが映画の中にあったように思えてならない。


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