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【短編小説】パンテオン

おそらく花の中に最初の視覚が試みられた 
――オディロン・ルドン


 私の人生は割礼から始まった。世界を切り裂くような痛み、鋏を持つ男への激しい怒り。それが私の最初の記憶だ。

 ニコラウス・コペルニクスは、外科医をレストランに招き、葡萄酒の入ったグラスを傾けていた。
 外科医は、ただの外科医ではない。トレパネーションを施すことのできる医師だ。頭皮を切開し、頭蓋に硬貨ほどの大きさの穴をあける。その後、頭皮は縫い合わせられる。手術は憂鬱症などに効果を示す。
 ニコラウスの目的は、手術を受けることではない。トレパネーション用の器具を医師から借りることだった。工具と呼んだほうがよいかもしれない。
 「このとおりの性能です」
 外科医は二枚の小さな円盤をテーブルに置いて、そう言った。一枚は乳白色の円盤、もう一枚は銀色の円盤。両方とも中央に穴がある。
 ニコラウスは乳白色の円盤を手に取り、それをつぶさに眺めた。
 「そちらは頭蓋です」と外科医は言った。
 「見事だ。切断面がなめらかに輝いている」
 ニコラウスはその円盤をテーブルに置き、今度は銀色の円盤を手に取った。
 「そちらは鉄板です」と外科医は言った。
 「信じられん。まるで鋳造したかのようだ」
 すると外科医は取っ手付きの道具ケースをテーブルに置き、それを開けた。中には湾曲した器具が納められていた。
 「まずはここを右手で握ります。それから口の部分を対象物に当て、左手で湾曲を利用して回転させます。口の中央にあるドリルは鋼鉄製、口に沿って回転する刃はダイアモンド製です。回転させるとドリルが対象物を貫きながら捉え、刃が切断を行う仕組みです」
 「なるほど。切断された円盤はドリルに持ち上げられ、器具の中に入っていくのだな」
 「そういうことです」
 「素晴らしい。いくらでお借りできるだろうか」
 「先生にお使いいただけるなら、お金はいりません」
 「いつまでかかるかわからないのだぞ?」
 「もちろんかまいません。光栄なことです」
 
 その翌日、ニコラウスは塔をのぼっていた。論理と幾何によって自ら築き上げた塔だ。
 塔は内部に螺旋状の階段を備えていた。ニコラウスは階段を一歩一歩のぼった。腰には取っ手付きの道具ケースを帯びていた。
 塔の骨組の向こうに、外の様子が見えた。外は白かった。ニコラウスは雲の中にいた。
 雲を抜けると、雲海と青空が広がった。ニコラウスは階段をのぼりつづけた。
 やがて、ニコラウスは青空を抜け、夜空の中をのぼっていた。夜空といっても、恒星はなかった。しかし、ニコラウスは彼方に太陽を見下ろすことができた。ニコラウスは階段をのぼりつづけた。
 
 気が遠くなるほどの時間がすぎた。
ついにニコラウスは最後の階段を踏みしめ、頂上にたどりついた。ニコラウスは頭上の星々を眺めた。
 ニコラウスは道具ケースを開け、器具を取り出した。右手で器具を握り、口の部分を頭上の天球に当てた。そして、左手で器具の湾曲した部分を持ち、回しはじめた。
 ダイアモンド製の刃が天球の面をぐるぐると滑るのが感じられたが、刃が入っていく感触はなかった。鋼鉄のドリルが入っていく感触もなかった。ニコラウスは刃を回しつづけた。
 数時間が経った。天球の同じ場所に刃を立てつづけるのは困難だった。時間の経過とともに天球が動くからだ。いま、ニコラウスの真上に一つの星があった。
 ニコラウスは、星が穴だということを知っていた。星は天球に空いた微小な穴で、そこから光が漏れているのだ。 
 ニコラウスは、器具のドリルの先端をその穴に据えると、そのまま刃を回した。ドリルは入っていかなかったが、同じ場所に刃を回しつづけることができた。
 天球の動きとともに、ニコラウスは少しずつ動いた。塔の縁からいまにも落ちそうになっても、刃を回しつづけていた。
 そのとき、ダイアモンドの刃が天球に入り、天球はくり抜かれた。まぶしい光がそこから溢れ出た。ニコラウスは目を閉じてかがんだ。
 
 くり抜かれた穴は、新しい太陽となった。夜空は光で満たされた。

 ミケランジェロ・ブオナローティは、礼拝堂の天井に、仕上げの筆を入れていた。木組みの上に立ち、色を塗っていた。
 木組みの下から、若い弟子が言った。
 「先生、お見事です。神の指とアダムの指。その間の、微小にも無限にも見える空間。このような絵画はかつて存在したことがないでしょう」
 弟子の声は、礼拝堂に反響した。
 ミケランジェロは、弟子に問いかけた。
 「フランチェスコ、これらの指は、互いに近づいているように見えるか、それとも離れていっているように見えるか」
 「近づいているようにも見えますし、離れていっているようにも見えます」
 「近づいているとしたら、これらの指は間もなく触れ合うだろう。つまり、これらの指が近づいているとしたら、それは神と人間とがかつて触れ合った証拠となるのだ」
 「すると、二つの指が離れていっているとしたら、触れ合ったのちに離れているということになりますか」
 「その通りだ。そしてその分離は、きわめて重大なものだ。人間の指は、神と離れたことにより、神を指し示すことができるようになったのだ」
 「神を指し示すことができるようになった……ですか」
 「そうだ。人間の指は、世界に存在するあらゆるものを指し示すことができる。それが遠い星であってもだ。それがなぜなのか、不思議に思ったことはないかね、フランチェスコ」
 「たしかに、この指が何かを指し示すことができるのはなぜなのか、考えてみると不思議です」
 「人間の指は、見えないものであっても、指し示すことができる。たとえば、向こうの部屋にいるかもしれないラファエロ・サンティ、それから教皇のことも、ここから指し示すことができる。それどころか、天であっても、指し示すことができるのだ。それは、かつて、人間の指が、神と触れ合ったからだ」
 「神によって、指し示す力が授けられたのでしょうか」
 「そうも言えるが、真実はもっと精妙だ。幼児に向かって無花果を指し示したいとき、お前ならどうするかね」
 「離れたところにある無花果を指し示したのでは、幼児にはわからないかもしれませんね。手に無花果を持ち、幼児の目の前に差し出すのがよいでしょうか」
 「その通りだ。つまり最初は、手と無花果は離れていない。離れていないことによって、無花果を指し示すことができる。それがあるとき、手と無花果が離れる。離れても、指し示すことができるようになる」
 「そう考えると、手から離れた無花果を指し示すことができるというのは、不思議なことのように思われてきます」
 「もともとは、手と無花果は離れていなかった。その段階があったからこそ、手は離れた無花果を指し示すことができるようになった。この絵の神とアダムもそうだ。アダムの指は、神と触れ合い、離れた。だからこそ、人間の指は、神を指し示すことができるようになったのだ」
 ミケランジェロは休憩をとることにした。絵筆を拭き、木組みから降りると、両腕を挙げて体を伸ばした。
 「少し散歩をしてくる」
 ミケランジェロは弟子にそう言い、礼拝堂を出た。
 
 ミケランジェロはテヴェレ川のほとりを歩いていた。水には青空と雲が映っていた。
 聖天使城へと差しかかり、ミケランジェロは橋を渡ることにした。
 橋の途中で立ちどまり、川を見下ろすと、一艘の船が橋の下から出てくるところだった。
 ミケランジェロは川面を眺めた。水の流れ、うねり、泡立ち、彼には何もかもが生命に見えた。
 生命は向かう先を持つ。草木は地中に向かって根を伸ばし、鳥は空に向かって羽ばたく。ミケランジェロにとっては、それとまったく同じように、川は海に向かって進むのだった。人間が天に向かって指を差すのもまた、生命の動きそのものだった。
 ミケランジェロは橋を渡り、街路へと入っていった。
 荷車を引く人が多くいた。木材を運ぶ荷車、魚を運ぶ荷車、なめす前の革を運ぶ荷車……。酒場の前では、五人の男たちが葡萄酒の樽を積み出していた。それからミケランジェロは、人を乗せた白い馬ともすれ違った。
 
 神々しきパンテオン。
ミケランジェロはこの建造物をしばらく見つめ、中へと入った。
 この世のものとは思えない古代のドーム。その頂上には、円形の穴がある。ミケランジェロはその穴の真下に立ち、ドームを見上げていた。
 このドームを見上げるとき、ミケランジェロは生命を忘れていた。ドームは生命を超えていた。
 ドームを見上げる眼もまた、もはや生命ではなかった。ドームの縁は、視野の縁にぴたりと一致していた。つまり、ドームの縁からの光は、網膜の縁に降りていた。そして、ドームの内壁からの光は、半球状の網膜へと降りていた。瞳孔という光の穴を穿たれた、眼球の中のパンテオン。
 
 ミケランジェロは、母の歌う子守歌を思い出していた。子守歌の、ふっくらとしたリズムが、呼吸のリズムに一致する。そのことに気がつくと、いつしか眠りに落ちていた。
 子守歌のリズムがドームだとすれば、呼吸のリズムは眼だった。子守歌のリズムのどこかに、そして呼吸のリズムのどこかに、穴が穿たれていたのかもしれない。
 その穴から、眠りがやってきたのだ。

 ニコラウス・クザーヌスは、書斎の机に銀板を置き、それをハンマーで叩いていた。細心の注意を払い、少しずつ叩いていた。銀板で、パラボラ状の凹面鏡を作ろうとしていたのだ。放物線の弧の形をした木型を左手にもち、それを銀板に当て、右手のハンマーで銀板の凹面を調整していた。
 二週間後、ニコラウス・クザーヌスは、凹面鏡の表面が滑らかになるよう、仕上げの作業をしていた。
 ついに仕上げを終えると、彼は木型の中心を凹面鏡の中心に据え、それを回転させた。木型は、凹面鏡の表面にぴたりと沿って回転した。
 ニコラウス・クザーヌスは、満足そうに微笑んだ。そして、凹面鏡を両手の指先で持ち上げ、机の引き出しの中にしまいこんだ。
 彼はもう一枚の銀板を机に乗せた。パラボラ状の凹面鏡は、同じものを二つ作る必要があったのだ。
 
 さらに二週間が経ち、もう一つの凹面鏡ができあがった。
ニコラウス・クザーヌスは、弧状の木型をそれに据えると、木型を回転させた。木型はなめらかに回転した。
 彼は机の引き出しを開け、一つ目の凹面鏡を取り出すと、二つの凹面鏡が向かい合うようにして重ねた。二つの円い縁が、寸分のずれもなく合わさった。
 「こうして世界は創られた」
 ニコラウス・クザーヌスはそう言い、用意しておいたセメントで、重なり合った二つの円い縁を外側から固めた。
 セメントが乾ききると、彼は別の引き出しを開け、一つの器具を取り出した。それは、ニコラウス・コペルニクスが使ったものとよく似た、回転刃のついた器具だった。
 ニコラウス・クザーヌスは、重なり合った二つの凹面鏡の上部の中心に、器具のドリルで穴をあけた。そして、そのまま器具を回しつづけ、回転刃で銀板をくり抜いた。こうして、重なり合った二つの凹面鏡の頂上部分に、硬貨ほどの大きさの穴があいた。
 彼が次に取り出したのは、親指ほどの大きさの磔刑像だった。彼は、真鍮でできたその磔刑像の底に、セメントを塗った。そして、鑷子で磔刑像をつかむと、それを凹面鏡にあけた穴から入れ、下側の凹面鏡の底に置いた。
 鑷子を穴から引き出すと、穴の上に磔刑像が浮びあがった。
 ニコラウス・クザーヌスは、浮びあがった磔刑像を見つめた。
 「世界の内側では、イエスの肉体はひとつの肉体にすぎない。だがその肉体は、中心に置かれている。何の中心か。世界に満ちる光の中心である。イエスの肉体は、光の中心にあることによって、こうして世界の外に像を結ぶ。しかしその像は、世界の内側からは見えない。世界の内側に住む者にとっては、イエスの肉体はやはり、ひとつの肉体にすぎないのだ。而して、世界の内側からは、光源、すなわち神も見えない。画家は太陽を描かない。画家は太陽光を反射するもののみを描く。預言者は神そのものを伝えない。預言者は神によって照らしだされた言葉のみを伝える。光とは何か。光とは神の発する聖霊である。イエスの肉体は、世界に満ちる聖霊の中心にある。イエスの肉体は、聖霊の中心にあることにより、聖霊によって編まれる霊的身体を持つのだ」

 私は大通りに面したアンティーク店に立ち寄った。
 ポーランドのオイルランプ、イタリアの指輪、ドイツの木箱……。数々の品にまぎれて、小さな布の袋が置いてあった。袋を持ち上げてみると、それは存外に重かった。
 「東洋の古銭ですよ」
 ふり返ると、机の向こうに座った店主が、こちらを見ていた
 
 私は部屋に帰り、右手で袋をさかさまにして、左手の上に古銭を出した。古銭は全部で七枚。どれも中心に円い穴があいていた。
私はそのうちの一枚を机の上に置き、あとの六枚を、その一枚を囲むようにして並べた。七枚の古銭はぴたりと敷きつめられた。
 私は真ん中の一枚を持ち上げ、ふたたび左手の中におさめた。中心に円い穴のあいた六枚の古銭の中央に、空白ができた。
 さらにこれをくり返すことができる、と私は考えた。これと同じ形で並んだ六枚一組の古銭があと六組あったなら、これら六枚の古銭を囲むことができる。そうしておいて、これら六枚の古銭を取り去れば、中央に空白ができる。そして次に、その六組の古銭を、同じ形で並んだ古銭を六組使うことで囲み、もとの六組を取り去れば、中央に空白ができる。そしてさらに……と、私はその様子を思い浮かべた。
 世界はそのようにして始まり、広がったのかもしれない。
 
 私は六枚の古銭で囲まれた空白を見つめ、そこに穴のあいた物体を想像した。
 それは私の失われた一部、私の包皮だった。

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