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インクルーシブ哲学へ④:対話において「健常」「障がい」とは?

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2023年11月6日

前回の記事を公開したら、対話的に反応してくれた人たちがいた。
最初に反応してくれたのは、お世話になっているインクルーシブの先輩だった。

その先輩から、「インクルーシブ」を考えたときに誰が(何が)アウトなのか? という問いをいただいた。

重大な問いだ。わからなくなる。

10月29日、辻堂海岸ワンデイキャンプで話しかけてくれた十代の男の子。
言葉はあまりうまく通じ合っていなかったかもしれない。
時間は短かったかもしれない。
でも、対話できたという感覚が、僕の深いところに残った。

それは、安心(safe)で、健常(healthy)な対話だったような気がする。
だから、また会いたいなと思う。

日々、いろんな人と話をする。
相手の話を聞かない人、決まりきった言葉を発する人、権威に乗って話す人、すぐに「いい話」を始める人……対話のできない人はたくさんいる。

自らが変わろうとする態度を忘れてしまった人たち。
自らの問い(実存的問い)を忘れてしまった人たち。
ハイデガーの言葉を使うなら、「非本来的」なありかたをする人たち。

社会では、そのような人たちこそが「健常(healthy, able)」と呼ばれていたり、それを自認していたりする。

でも、そのような人たちと対話しようとするとき、僕は「障がい(obstacle, unhealthiness, disability)」を感じる。
対話において「障がい」をもつのは誰なのか?
対話において「障がい」をもつのは、その状況なのだろうか?
その状況にいる僕自身は何なのだろうか?

安心(safe)なだけでなく、健常(healthy)な対話。
安心(safety)は主観的な感覚かもしれないが、健常さ(health)は客観的な状態だ。
だから、そこにいる全員が安心していても、健常でない(unhealthy)対話は、ありうる。

そのような意味での健常さ(health)、それを壊しにかかるものが、対話における「障がい」だと思う。
対話における健常さ(health)は、対話者の一人として、守りたい。
免疫システムが、身体を病気から守ろうとするように。

対話におけるインクルーシブを考えたときの、アウト、またはエクスクルージョンについて、いまのところ、そんなことを考える。

それでは、そもそも、対話における健常さ(health)、そして障がいとは、一体何なのだろうか?


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