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インクルーシブ哲学へ②:インクルージョンとは何か?

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2023年10月30日

インクルージョンとは何だろうか。
昨日は、何が、何を、インクルージョンしたのだろうか。

印象的だったのは、海の向こうへ、向こうへと、進む人たちの姿だ。
水陸両用の車いすに乗った子どもも、大人に押してもらって、海の向こうへと進んでいた。

誰かが誰かをインクルージョンしたのではなく、みんなが海にインクルージョンされようとしていた。
波のリズムをもつ海に、みんながインクルージョンされ、みんなが一緒にいた。
それぞれの楽しみ方をしながら、それでも一緒にいた。
それは海のインクルージョンのおかげだった。

この印象は、インクルーシブ哲学にとって、非常に示唆的だと思う。
インクルーシブ哲学は、哲学者が、哲学の外側にいる人を、哲学の内側にインクルージョンするのではない。
みんなが、哲学という海に向かって、インクルージョンされにいくのだ。
広くて大きな哲学に。

誰かが誰かをインクルージョンすることや、外側の人を内側にインクルージョンすることが目指すのは、レヴィナスの言う「全体性」だ。
相手を理解可能な対象にして内側に置くことを目指す、それが「全体性」を目指すことだ。
その「全体性」は、内側で閉じて完結する。

それに対して、インクルーシブ哲学は、レヴィナスの言う「無限」に向かう。
「無限」は、内側からはみ出す外側。理解を超えた外側。
そのとき、内側は閉じていない。完結していない。
みんなで、外側に向かって進む。
哲学という海に向かって。

哲学の海には、理解を超えた問いがある。
哲学の海には、理解を超えた他者がいる。
みんなで哲学の海に向かうのが、インクルーシブ哲学だ。

「みんな」は、完結した内側として存在するわけではない。
他者は、私の理解を超えている。
私は、他者のいる哲学の海に向かって進む。
他者のいる哲学の海に、私がインクルージョンしてもらう。
「みんな」というものが内側にいるとしたら、それは「みんなで」というしかたで進む運動のことだろう。
「みんな」は、「みんなで」という運動として内側にいて、「みんなへ」というふうに向かわれるものとして外側にいる。

思えば、昨日インクルージョンされたのは私だった。
「僕はここにいることを許されているのだろうか」と感じる私だった。
十代の男の子がくれた安心感。
それは、許すとか許されないとかを超えたところから贈られた。
その次元を私が理解することはできない。
理解を超えた外側から、私はインクルージョンされたのである。


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