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インクルーシブ哲学へ⑪:言葉に仮面をかぶせる――無限の他者はどこにいる?

▲前回


2024年4月5日

■作品:《おく》(Oku Project)
■会場:CALM & PUNK GALLERY
■相手のプレイヤー:藤中康輝さん(Oku Project)

Oku Projectの作品、《おく》に、プレイヤーとして参加してきた。
二人のプレイヤーが、言葉を交わさず、棚から物を選び、交互に物を置いていく。

一回目のパフォーマンスでできたものの一部


これを読んでいる人は、仮面をつけた経験があるだろう。
仮面をつけた人を見る経験をしたこともあるだろう。

仮面をつけた人は、見る人にとって、未知の人として現れる。

これはウジェニー・ルモワーヌ=ルッチオーニの言葉だ。

 衣裳をつけること、衣服で身を覆うこと、これは顔にコミュニケーションの優位を譲ることである。人間は根本的に顔で話すのである。
 では仮面はどうだろう。仮面によって身体は再びコミュニケーションの道具になる。

『衣服の精神分析』、鷲田清一・柏木治訳、産業図書、1993年、47~48頁


人間は言葉で話す。それでも他者は無限で、未知なところがある。

《おく》でのように、言葉を話さなくなると、人間の言葉以外のところが「再びコミュニケーションの道具になる」。
《おく》の場合、物を選んで置く行為が、コミュニケーションとなる。
いわば、言葉に仮面をかぶせるのだ。

すると、コミュニケーションにおける他者の未知が、がらっと変化する。
言葉によるコミュニケーションにおける未知から、物をつうじたコミュニケーションにおける未知へと変化する。
私は、普段の未知とは異なる未知を経験する。

手がかりは、相手が置いた物だ。
その物にもとづいて、自分が物を置く番には、形の連関を作ってもよいし、色の連関を作ってよいし、機能の連関を作ってもよい。
これらは意味的連関だ。
(自分の番に、そのような連関を作らないこともできるが、それもまたなぜか意味をもち、以前の意味的連関を拒否したという意味的連関ができる。)

目の前の場には、こうした意味的連関ができていく。
相手の意図した意味は未知のままだが、とにかく可視的なしかたで、意味的連関が存在するようになる。

無限の他者はどこにいるのだろうか。

言葉によるコミュニケーションの場合であれば、相手が発した言葉の意図を尋ねれば、未知に接近することができる。
無限の他者は、本人の意図の中にいることになっている。
だから、意図を尋ねつくしても残る未知は、本人の中の意図以外のところ(たとえば本人の過去の経験・無意識・衝動)にあることになる。

《おく》においては、言葉に仮面がつけられている。
無限の他者は、相手が意味した意図の中にいるのだろうか。
それとも、目の前にある可視的な意味的連関から溢れるところにあるのだろうか。

とにかく《おく》は、無限の他者、未知の他者が、どこにいるのかをわからなくさせてくれる。

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