女子教育は環境問題を解決するための切り札? 国際会議で取り上げられたSDGsトピックを検証する(Wezzy2021.08.20掲載)

女子教育は環境問題を解決するための切り札か? というのはなかなか興味深い問いではないでしょうか。過去に「女子教育が世界を救う」という連載を持ちながらも、環境問題については考えたことがありませんでした。

実はこの問い、イギリスとアメリカの大手シンクタンクが、教育に関する大きな国際会議を前にがっぷり四つに組んで議論していたトピックなのです。日本には超大型のシンクタンクが存在しないので想像しがたいかもしれませんが、まるで怪獣映画を見ているような迫力があり面白い議論でした。

今回の記事では、この「女子教育は環境問題を解決するための切り札か?」を巡る大手シンクタンクの議論を紹介しようと思います。トピックの興味深さだけでなく、議論の中身が日本で流行っているらしい「論破」とはまったく異なる、建設的なものだったのも紹介しようと思った理由です。今回の議論からは、生産的な議論をするためのやり方を大いに学べると思います。

女子教育は環境問題の切り札か?

日本ではSDGsが大流行しているにもかかわらず、7月末に開催された世界教育サミットに関する報道が全くと言っていいくらいありませんでした。「そんなサミットが開催されていたんだ!」と驚いた人も多いのではないでしょうか。

今回のサミットに先立つ外相会議で「女子教育に関する宣言」が採択されたことを受けて(外務省の仮訳はこちら)、主要テーマの一つとして「女子教育」が取り上げられた非常に重要な国際会議でした。

SDGsは持続可能な開発、とりわけ軽々と国境を越えてくる環境問題を主要なトピックとしています。しかし、日本で出てくるSDGsは国内だけで盛り上がる茶番となっていて、今回のようなSDGsに大きくかかわる重要な国際会議はスルーされています。日本の情けないところを象徴するような出来事だったと思います。

日本に対する嫌味はここで納めるとしましょう。今回のサミットに先立ち、ブルッキングス研究所というアメリカの大手シンクタンクが、「女子教育こそが環境問題を解決する鍵である」という楔を打ち込んでいました。様々なアクターが、限られた資金を出来るだけ自分達の思惑通りに動員するために楔を打ちあうのは、この手の大きな国際会議の前の風物詩です。

そのブルッキングス研究所が出したレポートの内容をかいつまんで紹介します。

メインとなる主張は、環境問題を解決するために、今こそ女子教育に投資すべきだというものです。その根拠は3つの要因から構成されます。一つ目は、レポート中での表現はお茶を濁していますが、はっきりと言えば女子教育が普及すれば人口問題(日本で問題視されているような人口減少ではなく、爆発的に増える人口のことを指しています)が解決し、環境問題も改善するというものです(「女子教育が世界を救う」の連載の中でもこの点について言及したことがあるので参照してみて下さい)。

二つ目は、女子教育が普及して女性のリーダーが増えると環境問題への取り組みも増えるというものです。初めにこのレポートを読んだとき、これまで女子教育支援の仕事をしてきた中で聞いたことがない女子教育の効果だったので、本当なのか疑問に思いました。レポートの中で参照されている論文も読んでみると、「女子教育が」とまで言えるのかはわかりませんが、どうも因果関係として、女性の政治家が増えると環境問題への取り組みがより為されるようになるというのは確認されているようです。

三つ目は、環境問題に取り組む仕事の多くは理系であるものの、理系を学ぶ女子学生が少ないという問題を指摘するものです。女子教育を支援することで、環境を重視した経済の中でも男女平等を目指せるし、それが現在の経済をより環境にも良い物にしてくれると主張されています。

これに対して真っ向から反対を示す記事を掲載したのが、グローバル開発センターというイギリスとアメリカを拠点にする最大手のシンクタンクです。女子教育は女子教育として重要であることは疑いの余地がない一方で、女子教育が環境問題の切り札になるというのは疑問の余地があり、女子教育を無理やり環境問題と絡めるGreenwash(環境問題を考慮しているという偽装)をするなというものです。その理由として次の2点が挙げられていました。

一つ目は、女性の知識やスキルが高まり経済活動が活発になれば、それはやはり環境問題の悪化につながるよねというものです。もう一つは、女子教育を人口問題と絡めて論じるのは倫理的にどうなんだというところがある上に、高所得国に対して低中所得国は環境問題への寄与度も低いのにそこに人口減を通じた環境問題への取り組みを迫るのは倫理的にどうなんだ? というものです。

双方の主張を並べてみると…

双方の主張を並べてみると、どちらもある程度データに基づいたしっかりとした主張で、どちらも正しい部分とそうでもない部分があることがわかります。

女子教育への投資が環境問題改善に繋がるという主張のもっともな部分は、女性の政治家が増えれば環境問題への取り組みが増すという部分です。一般的に政治家が高学歴であることを考えると、確かに女子教育の拡充を通じて環境問題への貢献が起こりそうです。その一方で、女子教育が経済を新たに作り変えるという部分は、これをサポートするようなデータや研究が無く、エビデンスというよりは願望に過ぎないGreenwashだと考えられます。

逆にGreenwash派の主張のもっともな部分は、女子の知識やスキルの水準が上がると経済活動も活発になり、逆に環境悪化につながるという点です。これは特に女性に限った話ではなく、一般的に国や社会が経済発展すると、その度合いに大小はあれど、環境負荷が大きくなることは想像に難くないと思います。ただし、これをもって低中所得国は貧困から抜け出すなと言うのは暴論の極みであり、高所得国が責任を果たしていかなければならない領域だというのもその通りです。

双方の主張を並べてみると、環境教育という重要なトピックを双方ともに避けているなと感じます。環境教育を導入したときに、ジェンダーと環境問題にどのような影響が出るのかがこの議論の重要なポイントだと思いますが、議論の双方に環境教育の専門家が噛んでいないだけでなく、恐らくですが、環境教育を導入した時にジェンダーと環境問題にどのような影響が出るのかというエビデンスもほとんど出ていないが故に、踏み込めていません。

そもそも論として、低中所得国は小学校を卒業しても半数程度は読み書きの能力をまともにつけられておらず、そこが出来ていないのに環境教育とジェンダーの話は時期尚早なのかもしれません。

まとめ

「女子教育は環境問題の切り札か」と言われると、そういう部分もあるし、そうではない部分もあるし、そうではない部分を改善できる可能性を有する施策もあるものの、まだ明らかに出来ていない……という煮えきれない回答をせざるをえないのが現状だと思います。

この複雑さからわかるように、社会的に重要な問いの解決法が妥当なのかどうかは、白か黒かをはっきりさせることが難しいものばかりです。

部分的には妥当だけれど、部分的には妥当とはいえない。妥当ではない部分がそうなってしまっている制約条件を取り除ければ、より妥当だと言える可能性が出てくる。逆に、妥当といえる部分を支えている前提条件が崩れ去ってしまった場合は、妥当ではないと言える可能性も出てくるわけです。

こうした妥当か妥当ではないか、それぞれを支える条件を洗い出して、ではどうするかを考えるのが生産的な議論であると私は思いますし、今回の議論もそのようなところに取り組めていると思います。

この議論の中には、妥当ではないにも拘らず妥当だと言ってしまっているGreenwashな部分も存在します。日本でも一部でSDGswashと言われるようになってきましたが、教育・ジェンダー・環境とSDGsの中でも主要なトピックが扱われた重要な国際会議の日本国内での扱われ方を見ると、さもありなんという印象を受けます。ぜひメディアやコンサルタントに踊らされるSDGsではなく、持続可能な開発・誰一人取り残さないというその大目標にしっかりと取り組む形でSDGsが盛り上がってくれると良いなと願っています。

サルタック・シクシャは、ネパールの不利な環境にある子供達にエビデンスに基づいた良質な教育を届けるために活動していて、現在は学校閉鎖中の子供達の学びを止めないよう支援を行っています。100円のサポートで1冊の本を子供達に届ける事ができます。どうぞよろしくお願いします。