見出し画像

ASD女、スタバで無性にむしゃくしゃする

夫が帰ってくるといった時間に30分遅れた
別に遊んでいたわけではない
ちょっと仕事が長引いただけ
でも今日の私には耐えがたい時間に感じられて無性にむしゃくしゃした

ASDであるわたしにとっては、その30分が、否、10分でも、自分の思い描いた世界と違うことは許せないのだ
でも、そんなことを許せないのは、よくないことだ、おかしなことだとちゃんと理性で理解しているから、わたしはもちろん怒らないし、大人として振る舞う

それでも、ほんとうは許せないし、世界が崩壊するみたいなストレスを感じるから、
わたしは欲しくもない服を買ったり、食べたくもないケーキを買ったり、見たくもないSNSをみたりして、また余計なストレスを溜めてしまう

夫が泊まりの出張にいくこと
大嫌いな病院にいかなければいけないこと
仕事で隣の席のお局さまがムカつくこと
からだがどんどん重くなって、無性にだるくてやる気が出ないこと
出産や育児が死ぬほど怖いこと
ほんとは仕事をがんばりたいのに、私の体力やキャパでは家庭との両立はしんどいこと

全部なんだかすごくイライラして、ナーバスな気分だった


夜中に家を抜け出して、ユニクロで欲しいかどうかもわからない夏用のワンピースを買った
(またどうでもいい散財をしてしまったと罪悪感で二重にむしゃくしゃする)

いつもは来ないスタバに来たら、やっぱりスタバは苦手だと改めて思った
(客層が妙に若いし、席の間隔が狭いし、照明が妙にチカチカして明るいし、店員が隙あらば話しかけてこようとするし)

とにかく席間が狭いのと、テーブルが小さいのが苦手で
隣にひとが座ってきたら、耐えがたいほどの不快さを感じる

むしゃくしゃしてスイーツを頼んだけど、別に食べたくなかったと食べながら気づいた

やりたいことはあるのに、頭の中が考えでいっぱいで、そわそわして手につかないし、
(図書館で借りた本を読みたい、ノートに考えを整理したい、本腰入れて仕事の勉強したい、ヨガやピラティスもしたいし、マインドフルネス瞑想もしたい)
本当にやりたいことなど何ひとつないという無気力な気分でもある


本来の私は、バランスをとるとか、「ちょうどいい」生き方をするとか、どれもそこそこ楽しむとか、そういうことは苦手だ


塚本邦雄のかの有名な短歌

『馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人戀はば人あやむるこころ』

にあるみたいに、やるなら死ぬまでとことんやる、という極端なあり方が、わたしにとっては自然だしラクなのだ

ほんとうはひとにどう思われてもいい
歳不相応でも、みっともなくても、眉をひそめられても、ほんとはわたしはどうでもいい人間なのだ

(こういうところが、わたしはHSPというよりASDだと感じる。人目が気になるわりに、本来的には他者の存在の無い世界に生きているから)


でも、社会で生きていくなかで
まともな社会人になりたい
よい母、よい妻でありたい
普通の人間だと思われたい
という気持ちにがんじがらめにされていて、
わたしはどうにもこうにもならずに鬱憤がたまる

(わたしは客観的にみたら、ちょっと変わってはいるけれど、良識のある普通の社会人に見えると思う。それはわたしが後天的に本当に悲しくなるほど学習したからだ。でも、しんどいとき、負荷がかかるとき、どうしてもボロが出ることに絶望する)


「ちょうどいい」とか「調和のとれた」とか「バランスのとれた」とかそんなことばを目にするたびに、わたしはなんとなく絶望を感じる

わたしは過剰だし欠損していて、その歪さこそがわたしの自然なあり方であり、
全く無いか、あり過ぎるか、どちらかなのだ

「完璧主義」や「ゼロ100思考」はいけないといろんな本に書いてあるが
わたしはほんとうは、何かをやると決めたら骨の髄まで完璧でありたいし
できないならば興味などないのだ


「なんとなくの違和感」
私はこれを消そうと死ぬほど頑張って消耗してきたけれど
今さら思う
どうして歪で極端であってはいけないのか、と

目を背けたくなるようなものを抱えて生きることを、どうしてそんなに頑なに否定してきたのか、と

わたしは極端であることに対して、一種の罪悪感や羞恥心を感じてきた
「恥ずかしい」ということばがいちばんぴったりくる
誰にも知られたくなかった



私の好きな本に、ドストエフスキーの『悪霊』がある

そのなかで、スタヴローギンという男がいる
極めて洗練された優美な美青年であり、かつ極めて卑劣で最低な行いをする、理解不能の引き裂かれた矛盾を抱えている興味深い男だ

「スタヴローギンの告白」という章で、新約聖書のヨハネの黙示録が引用されている

ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。

熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。


このなかで、「熱い」とか「つめたい」とか「なまぬるい」とかは、信仰に対する態度を表しているのだと思うが、
わたしはこの文章に妙に心惹かれる

神は極端であれといっている



なんだか訳のわからない文章になってしまったが
少しスッキリしたので、そろそろ家に帰ろうと思う

この記事が参加している募集

私のコーヒー時間

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?