「悟り」は一瞬で到達する神秘現象ではありません

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 -なぜ悟りの状態になりたがるのか-
 -悟りとはなにか-

写真は仏教学者 佐々木閑 氏 8/7日本経済新聞夕刊の記事です。

日本人にはびこる悟り観は、仏教本来の考え方とは違います。そして本来の悟り観を元にした生き方が、本質の安楽に至る道であることが書かれています。

悟りとは、悟り状態になることではありません。
本文より《古代インドから伝わる仏教の文献を見ても、人が一瞬にして悟りを開いた、というような話はみあたらない。創始者の釈迦自身、長い修行で試行錯誤を繰り返し、その最終結果として菩提樹の下で「悟りを開いた」とされているが、それもじっと思索を続けた結果として、「じんわりと」真理が見えてきた、という言い方になっている。》

神秘現象的に一瞬の悟り状態になることを目指すのならば、目指した時点で既に仏教ではありません。
本文より《悟りとは、日々の鍛錬が十分に蓄積し、満足な状態にまで達したと自覚できるようになった、その時のことをいう》

日々の鍛錬、そして仏法を学ぶというのは、頑張るということではありません。
本文より《「学べ」というのは、お勉強しなさいという意味ではなく、自分勝手な思わくを捨てて、この世を正しく見る力を養えという意味である。その結果として、私たちの誰もが、愚かで自己中心の生き方を是正するための道を見つけることができる。》

神秘的な悟りを目指すことは、既に自己中心な生き方ではないでしょうか。

神秘的体験自体は安楽であり喜びとなる経験であり、境地に達したら素晴らしいものだとは思いますし否定しません。しかし、過程自体が安楽でないならば、神秘でない時の自分を否定することにならないでしょうか。

過程自体の安楽のベースを上げていくこと。それは「知識や経験を高める力」とは別の軸である「自分勝手な思わくを捨てて、この世を正しく見る力」。

生きている私という存在における過程とは「日々を適切な聞思修[智慧を高めるための三慧を表した言葉]により丁寧に生きていくこと」。その適切さの指標が、より丁寧さを極め洞察した末に導かれた戒と律です。

釈迦は日々に安楽で在り続ける指標を示された方であり、決して神秘現象に到達するための方法を示された方ではありません。

人間は「経験欲」を持って素晴らしい神秘現象としての悟り状態になりたがるのは理解できます。しかし神秘の悟りは本質の安楽としての悟りではありません。「敬虔欲」を持って生き続けることが本質の安楽的生き方なのです。

では本質の安楽としての悟りとはなにか。本文の最後にまとめとして書かれています。
本文より《悟りは「オッ」「ハッ」の世界ではない。地道な一歩一歩が積み重なった先に開かれた天下の大道なのである。》

生きているどの瞬間も安楽状態であるならば、それが一生の幸せな生き方です。その観点を常に意識し洞察し生きること。それは自分優先としての目に見える安楽を手に入れる生き方ではなく、自分を深く受容し他者と繋がりながら、四無量心(慈悲喜捨)の意思と実践により生きていくということなのです。

一凡夫のたわごととして。

2020.8.9
藤井隆英 拝
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