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デザインやクリエイティブの言語化について

デザインやクリエイティブの「言語化」は組織で仕事をしたり、SNSで発信するときに一定の評価を受ける。

みんながなんとなく感じた「良し悪し」だったり、「仕掛けの巧妙さ」などが、いざ精度高く言語化されるとだいたい皆感心する。

ただある程度そのデザインの言語化を浴びると「なんでもかんでも言語化するもんじゃない」という気持ちになる。これが一周した状態かもしれない。

「クリエイティブには言葉にできない良さがある」
「言語化するのは野暮」
「そもそもデザインの言語化はできない」

そうなんだろうか?

基本全ての物事に論理は存在すると思う。ただモノによっては論理がハイレベルすぎて僕らのような庶民には認知・理解ができないって話で、「言葉にできない現象とか感覚」ってのは、ただ単にそれを観測してる人たちにそのレベルの現象を解析する能力が無かっただけだと思う。

極論、オカルト現象にすら論理は存在すると思う。…極論すぎたかも。

だから「言語化しすぎると良くない・言葉にできないモノを作りたい」っていう感覚は共感はできるんだけど個人的には捉え方が物足りなくて。
「論理は存在するという前提に立ちながら、自分にはそれを到底見つけられない、だから感覚的に捉えよ〜っと」というスタンスがいいと思う。

「言葉にできない」「野暮な言語化」みたいなのは所詮そう感じるレベルの言語化しかできないからであって、そう思ってしまうと可能性に蓋をしてると思う。
「論理が無いと思い込んで直感に走る」のと「論理はあるはずなんだけど導き出せないからあえて直感に走る」だと後者の方が可能性に蓋をしてないから好き。


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