古典・漢文の試験有害論
高校の国語教育に於いて
古典漢文の不要論
がSNS等に出ています。私の意見は
古典の教養は重要
但し
入試など試験には疑問
です。
理由は
無理に客観的にした試験
に対する反発です。無理に客観的にする一つの手法は
文法の問題などを主として出題
です。また別の面では
現在文への翻訳
漢文の書き下し文への展開
等です。これは、私達のような「教養としての古典・漢文」の立場では
多く出ている現在文訳や
漢文の書き下し
を読めばよいと思っています。もう少し言えば
古典の専門研究者でもないのに
文法知識など不要
と思っています。私は、占いなどで易経を、また仏教の色々なお経を読みますが、漢文の返り点を使うことなく、出版されている、読み下し文で十分役に立っています。
これを、数学などの分野での
三角関数不要
線形代数不要
微積分不要
等の場合には
研究者以外でも技術系の仕事で使う
ため、多くの人が使っています。
こうした
研究者だけが使う専門知識の試験
が適切でしょうか?
なお、このように
客観的な正解
が存在する問題は
物理学などの理想化した世界
では、容易に作ることが出来ます。ヴィーコの言う
正しいモノは作られたモノ
と言う状態です。
しかしながら、文学関係の問題では
個人の主観の関与
がどうしても多くなります。例えば
感動した
などは、人によって様々でしょう。
こうした不安定さは
入試問題などでは追及される
危険性があります。これを避けるために
文法などの出題
が出てきて、後に役立たない
試験のためだけの勉強
になっていると思います。これが
古典・漢文嫌いを多く生む
原因の一つでしょう。
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