見出し画像

「不要不急」思想の影響 介護施設の課題Ⅳ‐2


1.不要不急という思想

 國分功一郎(哲学者)さんはコロナ危機を生きるための新たな日常の指針として多くの国民に内面化された「不要不急」について考察しています。
 同氏はコロナ禍によって社会に次のような傾向が強まってきたと危惧しています。

「不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない社会の傾向」
「目的をはみ出るものを許さないという傾向」

引用:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p145,146

 「不要不急」とは「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」ですが、國分功一郎さんは、この「不要不急」概念の中核には「必要」の概念があり、その「必要」概念は「目的」概念と深く結びついているといいます。

「必要であるものは何かのために必要であるのだから、その意味で、必要の概念は目的の概念と切り離せません。」

引用:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p133

 そして、國分功一郎さんは、「必要」「目的」概念は「手段」概念とも切り離せないといいます。

「・・・アーレントによれば、手段の正当化こそ、目的を定義するものに他ならない・・・」
「目的はしばしば手段を正当化してしまうことがあるのではない。目的という概念の本質は手段を正当化するところにある。」

引用:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p150,151 ※  ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年~1975年)は、ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者、思想家 

 考えてみれば、目的とは「何々のため」ということであり、何々を実現できる手立て、手段が一切ない目的など、想像できません。
 手段と目的は一体のものです。
 例えば、ロックダウン[1](lockdown:都市封鎖)は命を守るという目的の手段です。
 「ロックダウン(手段)は命を守る(目的)ものだ」。
 この文章を短縮すると「手段は目的だ」となります。

 國分功一郎さんは、コロナ禍を契機として日本中に「必要を超えたり、目的をはみ出たりすることを許さない」という「不要不急」思想が広まり普遍化したと指摘しています。

 そして、この「不要不急」思想の中核には「必要-目的-手段」という概念がありす。
 
私は、これらの概念は「必要」「目的」「手段」が一体となっており、キリスト教の三位一体[2]的な概念と同様、「必要」「目的」「手段」でワンセットとなっているのだと思います。
 要するに、「不要不急」思想とは、緊急に「必要」だと思えないもの、つまり、コロナに罹患しない、コロナ禍を生抜くという「目的」にそぐわないものを排除するものです。そして、この目的を実現するための「手段」として「移動の自由」や「面会の自由」を制限するのです。
 
 ここ数年にわたるコロナ禍をとおして、この「不要不急」思想が規範化され、単に人間が生存していくこと、「剥き出しの生」(イタリアの哲学者、ジョルジュ・アガンベンの言葉)、ただただ「生きてさえいれば良い」を目的とすることが日常化してしまったのかもしれません。

 國分功一郎さんはこのような社会の傾向は以前から支配的になりつつあった傾向がコロナ禍を契機にさらに先鋭化したものではないかと指摘しています。

「・・・コロナ危機において実現されつつある状態とは、もともと現代社会に内在していて、しかも支配的になりつつあった傾向が実現した状態ではないでしょうか。不要不急と名指された活動は、コロナ危機から制限されただけでなく、そもそもそれを制限しようとする傾向が現代社会のなかにあったのではないでしょうか。」

引用:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p155

 「不要不急」は「必要-目的-手段」を絶対視する現代社会の基本思想であり、不必要と思われる物事を排除する思想です。そして、この「不要不急」思想がコロナ禍をとおして強制力をもつ規範へと先鋭化したのだと思います。

2.介護施設における「必要-目的-手段」思想

(1)介護における「ニーズ-自立-介護計画」

 コロナ禍による「不要不急」思想の普遍化とは「必要-目的-手段」思想に基づき、単に人間がただただ生存さえしていればよいということ、「剥き出しの生」(ジョルジュ・アガンベン)を究極の目的とすることの日常化に他なりません。
 そして、「不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない。必要を超え出ること、目的をはみ出るものを許さない。」(引用:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p147)
 つまり、生きてさえいれば、その他の人間的文化的なことはどうでもよい(排除してよい)という社会の傾向は、コロナ危機以前からあった社会の潜在的傾向でもあったようです。
 生産性、効率性のために多くの人間諸価値を排除するのが、新自由主義的な社会に生きる者たちの内面を支配していることからもうなずけけるでしょう。

 このような人間的諸価値を排除する傾向が、コロナ禍によって先鋭化してしまったのですが、この社会の傾向は介護施設にも押し寄せているというより、介護施設が「不要不急」規範・思想の先兵となっているのかもしれません。

 そもそも、この「必要-目的-手段」という三位一体的思想は、従来から介護の重要な概念・思想でもあったと思います。

 介護では当事者(入居者)それぞれの「必要=Needs」に応じて介護計画を作成し、介護を提供します。この介護計画の起点にあるのが「必要=ニーズ(Needs)」です。
 
そしてこのニーズは必ず何らかの目的があるのですが、自立という「目的」に政策誘導され、収斂しゅうれんされているのではないでしょうか。

 介護施設において、目的を実現するための「手段」が「介護計画」です。この計画は、誰が、何時、何処で、何を目的として、どのように介護するのかを明示・指示するものです。入居者、一人ひとりの「必要=ニーズ」を満たすための「手段」としての「介護計画」は、政府公認の自立という「目的」の達成に向けて作成されるのです。

 上述のように、「必要-目的-手段」思想は介護施設では「ニーズ-自立-介護計画」思想と読み替えることができると思います。

(2)必要を超え出て目的をはみ出たところに「豊かさ」がある

 そもそも、介護施設での種々の活動、業務、サービスには目的があります。例えば、食事の目的は栄養摂取ですし、トイレ誘導も居室から共同生活室への移動もADLの改善が目的。
 着替え介助や入浴介助や排泄介助は清潔保持が目的で、体位交換は褥瘡予防が目的。
 レクレーションもADL改善や気晴らしが目的です。

 個々の入居者のニーズがあり、そのニーズへの対応として介護サービスがあり、それぞれの介護サービスには目的があり手段があるのです。

 この「ニーズ-目的-介護計画」からはみ出るもの、超えるものをまったく認めないとしたら、実に貧しい生活、介護になってしまうかもしれないと、私は危惧きぐしています。
 介護施設で人間として生きていくうえでの「ゆとり」「余裕」「豊かさ」「潤い」を求めることは大切なことだと思います。

 例えば、食事は栄養摂取という生理的なニーズだけではなく、ただ単に食事を楽しむために食事をすることもあるし、レクレーションも機能訓練のためだけではなく、単にレクを楽しむということもあるでしょう。

 必要を超え出て目的をはみ出たところに「豊かさ」があることを忘れてはならないと思います。

(3)私たちは入居者の命を預かっている

 そして、コロナ禍を経て、「不要不急」思想の規範化という社会全体の潮流に後押しされて、介護施設では「ニーズ-自立-介護計画」思想以外のものを認められない、許されないものとして機能し始めているのではないかと心配です。

「必要=ニーズ」概念にはそもそも、社会的に許容される必要なるものと、そうでないもの(必要でないもの)とを峻別する思考が潜んでいるのですが、その線引きの基準が「不要不急」思想に準拠していては、「ただただ生きている」というだけの「剥き出しの生」のみが目的になってしまう怖れがあります。

 介護の世界では私たちは入居者の命を預かっている」という言葉をよく聞きますが、この場合の『命が「剥き出しの生」』なのかもしれません。命を守ること、「剥き出しの生」を守り抜くことが介護の根本的目的とされているのかもしれません。

 介護施設の「必要・Needs-目的(自立)-手段(介護計画)」という三位一体的思想から少し距離を取ることができないものでしょうか。


[1] ロックダウン(lockdown)とは「都市封鎖」という意味。具体的な内容としては、「対象エリアの住民の活動を制限する」などが挙げられ、外出禁止などが代表例。

[2] 三位一体とは、キリスト教において 父 ・子・聖霊 の三つが「一体」であるとする教え。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?