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エッセイスト塩谷舞さんに随筆の本質を感じた。

塩谷舞さんといえばnoteで有名なエッセイストである。この度、彼女が二冊目のエッセイ集を文藝春秋新社から出版したので、それを注文したばかりだ。彼女の第一作である「ここではない世界に行きたかった」を愛読していたし、彼女の視点と文体がとても好みだったので、何度も読んでいた記憶がある。

ちょっと気になっていたのが、YouTubeで塩谷さんが動画をアップするのを見てはいたが、noteでの執筆は別にして、なかなか新刊が出版されない。ファンとしては待ち遠しいし、なにか不都合でも有ったのかな?と少々心配になってもいた。

さっき、お小遣いの都合がつきそうだったので、塩谷さんの第二作目のエッセイ集「小さな声の向こうに」を注文した。

その後にAmazonのホームページの書籍の詳細を見ていたら、彼女の文章も載っていて、「自分の心をさらけ出す暮らしに消耗してしまった」というような内容が書かれており、瞬間「あ、分かった!」と僕は思った。

僕が最初にnoteを書き始めた時は何をどこまで、どのように書くか、更には文体まで思案したが、自分のことをさらけ出しすぎても、結局は消耗していくだけだろうし、意見と日常の話題を不都合のない範囲で書き記したら、まあ御の字だと思っていた。つまりは引いた。

塩谷舞さんの第一エッセイ集の帯にエッセイストを名乗るブレイディみかこさんと作家の江國香織さんが言葉を寄せていたが、僕は読後にどちらも違うと感じた。塩谷さんは単に「ここではない世界に行きたかったから」からアメリカに旦那さんと行ったわけだし、それはゴム毬のように跳ね回る性格ゆえの行動ではない。たぶん、塩谷舞さんは自分で居たかっただけなのだろうと思う。

エッセイストとしての彼女はエンタテインメント志向ではない。

塩谷舞さんと違うが、何人かの随筆家を読んできた。正岡子規に始まり、寺田寅彦に、岡潔、最近では哲学者の鷲田清一先生といったところだが。

女性は白洲正子に幸田文、須賀敦子さんを読もうと思ったが、ちょっと未読も多くあり、これから読んでいく予定。幸田文の娘の青木玉さんは芸術新潮に着物の連載をしておられたので、彼女の文章や随筆の端正さにあこがれたりしたことはある。

話しを塩谷舞さんに戻すと、随筆は自分の思いや生活をある意味赤裸々に書き連ねる部分があり、それが文学のジャンルの中でも特異な点だ。小説なら自分の思ってもいない意見も内容も作り放題で書き放題だからだ。いや、それは可能なのだろうと思う。

随筆の痛みを知るには正岡子規が最適で、彼の「病牀六尺」、「墨汁一滴」、「仰臥漫録」には彼の写生という思想に基づいた随筆が、彼の身体的及び精神的痛みとともに、かなり詳細に綴られている。写生という点から随筆を捉えると正岡子規のようにならざるを得ないと思うし、小説の下に来るランクのジャンルでもない。身を削るという部分では哲学に似ているかもしれない。シモーヌ・ヴェイユやパスカルの箴言に似た痛みが随筆の中から放射される瞬間がある。

直截に感じるのは、塩谷舞さんのエッセイのスタンスは、正岡子規や青木玉さんに通じるものがあるような気がする。社会と日常と人生の混ざりあったバランスという点で。

ということで、ある意味の茨の道を選んだような塩谷さんだが、寡作でもいいから随筆は書き続けて欲しい。名文家と言われるには時間が掛かるし、彼女がその称号を手に入れるにはもうしばらく時間がかかるだろう。ファンとしては断念だけはしないで欲しい。

あと数日したら、彼女の第二作エッセイ集が届くので読むのが楽しみだが、生活は変化していても、彼女の特異ともいえる美的感覚は随所に表されていると思うのでそれを期待している。

彼女には精神的に無理のない範囲で文筆を続けてもらいたい。


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