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いろいろな街に暮らしてきた。

半世紀近く生きていると、色々な街に住んできたことを振り返ることがあります。それぞれに思い出があります。いま一度振り返ることにしてみます。よほどお時間がある方、どうかお付き合いください。

まず最初は埼玉県大宮市(現さいたま市)。
2歳までこの街で育ったそうです。もちろん、記憶にはありません。アルバムの中の写真や8ミリの映像で追体験していました。15年ほど前に母親とその街に行きました。当時よく行った公園や神社にも行き、彼女はとても懐かしんでいました。
また私が敬愛する現代美術作家が、当時私達家族が暮らしていた場所の近くに暮らしていることを、以前家族写真を依頼され訪問した際に気付いたこともありました。

そして2歳からは両親の故郷、鳥取県羽合町、現在の湯梨浜町です。高校を卒業するまでこの街に暮らしました。山と海と湖、そして田園に囲まれた風光明媚な場所。温泉街もあります。私が世界一愛する場所です。野球に明け暮れた10代でした。最近は湖畔沿いを中心に都会からの移住者が増え、新たなカルチャーが生まれています。

18歳からは大学進学とともに大阪へ。最初の2年間は大阪市東淀川区に住みました。最寄りの駅は阪急下新庄。大学には電車で通いました。電車に乗る機会はそれまでほとんどなかったので定期を使うのも初めてでした。隣の淡路駅も歩いて行ける距離だったのでよく行きました。入学して半年後、原付バイクを買って摂津市の製薬会社にアルバイトで通いました。2年間、週3〜5日、夜7時から長いときは朝方まで働きました。白衣を着てゴム手袋をはめて、病院から運ばれてくる検体をひたすら遠心分離機にかける仕事でした。
バブルの余韻がまだ残り、家賃も高い時代だったので、風呂なしトイレ共同のアパートに住んでいました。コインシャワーが1台ありましたがよく故障していたので当てにならず、銭湯に通っていました。
また当時はとても治安が悪いところで、私も大変危険な目に遭いました。2年後、家賃の相場も3割近く下がったこともあり、大学のある吹田市に移りました。最寄り駅は関大前駅です。大学には歩いて5分ほどでしたが、関大前駅までは歩いて20分くらいでした。

大学の近くということで、それまでよりも少しばかり多くの友人が私の部屋を訪れるようになりました。早稲田大に通う高校時代の親友は帰省する度に私の部屋に泊まりました。私は全く料理をしませんでしたが彼は料理が趣味で、私の部屋でぶり大根を作り、私の大学の友人を招いて3人で食べたのもいい思い出です。
この部屋にはユニットバスもあってエアコンもあって、ベランダに洗濯機も置けて、とても快適でした。それまで全てなかったり、自分で働いて買ったりしていたので、ささやかながらこの時期に「足るを知る」を経験できたように思います。この部屋に移る頃、ようやくビデオデッキが買えたので、学生街のレンタルビデオ屋さんに通うようになりました。そして大学に近いため、閉館まで図書館を利用できました。卒論やレポートのための資料を借りたりコピーをしたり。就職活動中は英語の勉強をしたり。普段は新聞を読んだり、アエラやニューズウィークを読んだりと、ほぼ毎日行ってました。

またこの街に、この部屋に移ってからは大学生活も楽しくなり、とても充実した2年間となりました。教職も履修していたので4回生になっても忙しく、授業の合間に原付きで野球サークルの練習や試合に行ったり、夜間の授業の後にアルバイトに行ったりしていました。時代は90年代半ばで、この街に移る少し前に大震災があり、この街に移る頃にはサリン事件がありました。その後メジャーリーグで野茂英雄の大活躍があり、オリックスの優勝、明けて96年はアトランタオリンピックという時代でした。95年の夏には母校が甲子園に出場し、後輩の勇姿を観たのも感慨深い思い出です。

 いつものように長くなってしまったので、続きは次回に譲ります。
今回は、大宮市〜鳥取県羽合町〜大阪市東淀川区〜吹田市の22年間を振り返りました。お付き合い、ありがとうございました!





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