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見飽きることのないポートレート。

見飽きることのないポートレート。そんなポートレートに時たま出会います。

先日、東京の蔵前で横山大介さんの写真展を観てきました。
長応院という浄土宗のお寺の境内にあるギャラリー。空蓮房と名付けられた真っ白の四角い空間のなか、一人だけで一時間、作品に向かい合います。それは郷里で幼少の頃に体験した「かまくら」の中にいるような、不思議な温かさを感じる空間です。

横山さんの展示は3回目。初めて横山さんの作品に触れた一昨年の展示に、私はとても衝撃を受けました。偶然手にしたDMに写るポートレートに惹かれ、展示会場に足を運びました。そこで初めて横山さんが吃音であることを知り、トークショーでは撮影する時の背景なども聴けて、私にとっては学びに満ちた時間となりました。

その時の展示作品のなかに、とても惹かれる作品がありました。三脚に大判カメラを乗せ、わずか1枚だけシャッターを切ったという、等身大ほどに引き伸ばされた20代くらいの女性のポートレートです。カメラを真っ直ぐに見据え、撮影者である横山さんを信頼していることが感じられます。とても静かな写真です。第三者の眼を意識したような強欲さがありません。何かを目指すような、結論を導くような意思が感じられず、その「お陰」で、いつまでも見飽きることがありません。

撮影者である横山さんは被写体であるこの女性の個人的な事柄をほとんど知ることもなく、撮影を依頼したのではないかと思います。直感がこの女性を撮るように導いたのだと私は感じています。撮影後も彼女の背景を詮索していないでしょう。ふたりの間に瞬時に結ばれた信頼関係があり、お互いに呼応した喜び、交歓があれば充分だと思います。その喜びは、至福は鑑賞者にもダイレクトに伝わります。時間の流れがゆっくり進み、永遠となり、ずっと観ていても飽きるどころか喜びは増えていきます。

先のトークショーでの対談相手でもあった空蓮房を主宰する谷口昌良さんもそんな喜びを感じて、その女性のポートレートを購入されたのではないでしょうか。

トークショーのなかで住職でもある谷口さんは、「自分がどれだけ頼りないものかを突き詰めるのが仏教」という主旨のことを話されていました。ポートレート撮影もお互いの頼りなさを正直に露呈し合い、助け合ってなんとか成立させるものだと私は思っています。その協力し合うふたりの姿はとても美しいものだと思います。そこには「自然」があると感じます。自然界に生きとし生けるものたちは互いに影響し合い、調和しながら命を繋いでいます。ポートレート撮影には、その自然界の原初の姿、喜びが内包されていると感じています。そして仏教はその辺りの真理が語られているのではと思います。現代美術作家として名声を得る前の杉本博司さんが骨董商として膨大な数の仏教美術に触れ、その教義に触れていたのも、とても興味深いことです。私は小学生の頃に日曜学校でお寺に毎週通っていましたが、よく意味がわからないながらも読経し、説法を聴いていたことも、私の撮るポートレートに少なからず影響していることを年々感じるようになりました。もう少し仏教を学んでみたいと思っています。

横山さんの写真展。先に触れた女性のポートレートも展示されています。今週金曜までの会期で予約制ですが、タイミング合う方はぜひ、横山さんの作品に触れて頂きたいです。

境内には本棚が置かれ、谷口さんの蔵書と共に横山さんが支えられてきた数冊の本が紹介されていました。そこには私が初めて観た横山さんの展示に素晴らしいテキストを寄せられていた美学者の伊藤亜紗さんの著書に加えて、「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」という漫画がありました。映画化もされていて、脚本は先の朝ドラ「ブギウギ」も担当された足立紳さんです。足立紳さんは郷里で私の隣の中学のご出身で、この映画のことは知っていましたが未見でした。観てみたいと思います。

かまくらのような真っ白なギャラリーのなか、多くの時間、先の女性のポートレートをただただ見つめていました。そしてふと、気付いたことがありました。この眼差しは誰かに似ている。似ている誰かと過去、眼差し合ったことがあると。それは、学生時代に出会った同級生でした。ポートレートを撮ることはありませんでしたが、そこには信頼関係と呼応と喜びが、いつもありました。私は何も持たない貧しい学生でしたが、彼女の眼差しと言葉から、将来何かを創る人間になれるのではないかという予感というか、確信を持ちました。わずか18歳での直感でしたが、今でもそれが私を支えてくれているような気がします。

そんな「ミューズ」となるような作品に、ぜひ出会ってみてください。





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