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【小説】推しは浮気を許容する

 ある日突然、家賃と光熱費などを折半する同居人が “中退” を宣言した。
「実は最近、付き合い始めた彼女がいるんだよ。だから正直言うと、もう今までみたいに活動できない」
 なんたる腑抜け野郎か。推しが卒業するまでと誓い合った覚悟を忘れたのか。僕は内心、めらめらと激怒した。
「そっか。良かったな」
 表面上はにこにこと承諾した。喧嘩のできない気弱な性格が幸いしたと言える。怒りを露わにすれば、嫉妬しているようで恥をかく。

 翌日から新しい同居人を探したが、やはりルームシェアは煩わしいようで、そう簡単に見つからなかった。いわゆる2DKの間取りで、ダイニングキッチンに加えて二部屋あるだけに家賃は高めだ。誰かと折半できないのなら、早めに引っ越した方が良い。
 僕は生活費を極力切り詰めている。夢の為などではなく推しの為――要するに、贔屓のアイドルを応援する為に。

 腑抜け野郎が退去してから凡そ一ヵ月が経った頃、推しの所属するアイドルグループの握手会が遠方で開催された。前の週末は近場であったので、共にいく仲間は少なめだった。推しはそれぞれ異なっていた。
 仲間と一旦別れて、列ごとにロープで仕切られた握手待ちの最後尾に並ぶと、握手会で度々見かける大学生くらいの女性が僕の後ろにきた。彼女の出で立ちは、あまり似合っていないのだが、いつも推しの好みと同じガーリーファッションだ。その日は花柄のワンピースを着ていた。黒々した付けまつげの目と視線が合った際、お互いに小さく頭を下げた。女性ファンは特段珍しくはないが、遠く離れた会場のどちらにも来るとなると、女性では極少数だ。
 黙ったまま十五分ほど待ち、挨拶代わりの握手を終えて、時間を少し置いてからもう一度並んだ。折り返しの際に気付いたのは、先の女性がまた僕の後ろにいること――
「おお、奇遇ですね」
 本当に偶然だったのか、はたまた意図的だったのかは分からない。以前交わした言葉は挨拶程度だったが、僕の驚きから話が続いた。握手の番が回ってくる寸前まで。
 推しは意味深な笑みを浮かべていた。彼女は熱心なファンのことを良く覚えている。
「あれえ、リンちゃんと付き合ってるの?」
 僕が顔を赤らめて否定すると、推しは声を上げて笑った。いつになくご機嫌だった。
 そんな推しの前を離れた後、下心ではなく礼儀として、列の外でリンちゃんを待った。偽名のような気がした。
「めっちゃ凄いですね」
 戻ってきたリンちゃんは興奮気味だった。
「ユイちゃんが握手会であんなにテンション高いなんて信じられないです。ターさんの流れで私にも神対応でした」
 推しがターくんと言ったのだろう。
「いや、僕は関係ないですよ」
「間違いなくあります。あの対応は特別に心を許している証拠です。もしよかったら、また一緒に並んでほしいです」
 素直に嬉しかった。だらしなく顔に出てしまった。推しに通い続けて三年が経ち、ついにそんなことを言われるまでになった。しかもお洒落な女性から。尊敬の眼差しを向けられている。途端に、リンちゃんの顔立ちが可愛く見えた。
「連絡先を交換してくれませんか?」
 妙に積極的なリンちゃんに促されて、僕たちは連絡先を交換した。
 
 その後、毎日のようにやり取りを重ねた。本名は林さんだった。推しに対する熱意が似通っていて、話題は尽きなかった。
 リンちゃん曰く、僕は推しにとって特別な存在とのことだが、そうだとすれば、通常やっかみが生じる。熱心に応援するほど、女々しい嫉妬に苦しむことがある。だが、リンちゃんにそのような感情はなさそうだった。なぜかと考えて出た答えは――
 きっと女性だから。
 男性ファンに少なからずある恋心がないのだろう。よって純粋に、僕を凄い人だと褒め称えてくれる。世間一般からすると、一回り年下のアイドルに熱を上げる気持ち悪い三十路の男だが。
 
 では、僕に対して恋心があるのか。
 それもなさそうだった。そして僕も同じだった。一時はリンちゃんを可愛いと思ったが、我に帰れば推し以外の女性など、やはりただの人だ。二位もビリも変わらない。最高無二の推しこそが魅力的な女性で、いわば女神だ。
 神のように崇拝している点はリンちゃんも似通っていた。それほど憧れる推しに覚えてもらえて、「可愛いね」とか「お洒落だね」と言ってもらえる喜びは、バイト代をつぎ込んでまで応援する励みになっているようだった。もちろん僕には理解できるが、バイトを複数掛け持ちにしてから親と折り合いが悪いようだった。
 僕も大量に届いたCDがきっかけで親と喧嘩になったこと、実家を出てルームシェアをしていたこと、その同居人が腑抜けた理由で出ていったこと、そろそろ引っ越しをしようと考えていることなど――握手会で会った際に何気なく話した。すると、リンちゃんは信じがたいことを言い出した。
「じゃあ私が一緒に住んでもいいですか?」
「え!?」
 リンちゃんは唖然とした僕を見て急に恥ずかしくなったのか、また連絡すると言って走り去った。


 昨日は話の途中で帰ってすみませんでした。私の考えを上手くお伝えする自信がなかったので、しっかり文章にまとめてみました。最後まで読んでくださると嬉しいです。
 私が言いたかったことは、あくまでもルームメイトとして一緒に住んでみませんか? という提案です。私の思い違いかもしれませんが、お互いメリットしかないように思います。ユイちゃんを推す同志としても、絆が深まるように思います。
 ちなみに、私の途中離脱はありえません。絶対にユイちゃんが卒業するまで推し続けます。恋人ができることもないでしょう。だって私は恋する気持ちが分からないのです。
 恋は性欲を美化していませんか? 
 愛とは程遠いもので、私達のユイちゃんを推す気持ちの方がよっぽど愛だと思います。じゃあ私は同性愛だろうかと悩んだことがありますが、どうやらそれも違います。推すことはつまり、性別も性欲も超越しています。花を見て美しいと思うように見つめて育てる、と言ったらおこがましいですね。推しの成長を見守るのです。
 ターさんと知り合った時から、この方は見習うべき存在だと分かりました。ユイちゃんが心を許すようになっても自惚れず、少しも偉そうにしません。それはきっと、良い対応という見返りを求めていないからです。私は反省しました。良い対応を引き出そうとする卑しい気持ちがありました。
 気づかせてくれたことに感謝しています。尊敬しています。思い切ってお伝えすると、これが本当の恋かもしれないという好奇心もあります。
 とは言いましても、握手以外の体の接触に警戒感が強く、そのような行為を一切受け入れられません。ターさんなら間違いを犯すことはないと、信じていいですよね?
 Love does not consist in gazing at each other, but in looking together in the same direction.(愛はお互いを見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることである。)
 これはサン=テグジュペリの言葉です。私達は共に同じ方向、つまりユイちゃんを見つめて助け合えるはずです。多少の誤解があるかもしれませんが、お互いを見つめ合う必要はなく、愛とも言い換えられる絆を深めてゆけるはずです。どんなカップルよりも清く、正しく、美しく、共同生活ができるはずです。その原点にあるのはユイちゃんを推す気持ちです。ユイちゃんがいるからこそ、私達は今日も道を踏み外すことなく生きています。
 ああ、なんて尊いのでしょう。やっぱりユイちゃんは神です。
 共感してもらえますか? 
 お断りされたら大変恥ずかしいですが、ユイちゃんをより一層推す為に提案したことなので、後悔はありません。


 もちろん断る理由などなかった。渡りに船だ。すぐに返事を出した承諾の中で、間違いを犯すことはないと断言した。
 そして、あっという間にリンちゃんの引っ越してくる日取りが決まった。その月の家賃はいらないと伝えたが、リンちゃんは日割りで払うと言ったので、きっちり貰うことにした。引っ越しの手伝いは最小限にとどめて、あまり優しくしないように気をつけた。失礼ながら女性として全く興味がないので、ルームメイトと割り切ってもらった方が有り難い。同志としての愛を貫く為には、お互いに恋心を抱かない方が上手くいく。

 共に暮らし始めると、リンちゃんのストイックな生活を思い知らされた。
 決して外食をしないようで、毎日ご飯を炊いておむすびを握る。平日は朝七時までに家を出て、夜九時を過ぎなければ帰ってこない。そんな中でも、ユイちゃんが発信する情報と出演するライブ動画のすべてに目を通している。できる限りバスや電車を使わないらしく、日焼け防止の重装備――フェイスカバーのある鍔広の帽子に大きなサンバイザー――で良く自転車に乗っている。まるで蜂の巣を駆除にいくような格好だが、週末のイベントなどでユイちゃんに会う日は一転する。華やかに化粧をして、前日に美容院で切った髪をセットして、全身買ったばかりのガーリーファッションに身を包む。それは一度しか着ないもので、後日ネットを介して売りさばく。つまり、ユイちゃんに見せる為だけに買った品々だ。そして、ユイちゃんへの投資を惜しまない。売上に目一杯貢献して、一秒でも長くユイちゃんに会おうとする。握手会はざっくり計算すると、僅か十秒で千円だ。要するに、一分話をするなら六千円かかる。生産性のない贅沢で、常人からすると無駄でしかないが、リンちゃんはそれを心底楽しんでいる。
「今度の握手会は十五分くらいお話しできるんです」
 そう話した時の目は、嬉しそうに輝いていた。

 次の夜、貴重な十五分で何を話すかについて、共用のダイニングルームで相談を受けた。
「思い切って、私も中学の時にイジメられていたことを告白してみようと思うんですが、そういう暗い話は迷惑になりそうですよね。手紙の方がいいでしょうか?」
 僕は首を横に振った。ユイちゃんならきっと迷惑に思わないと伝えた。
 すると、リンちゃんがかつて同級生から受けた壮絶なイジメのことと、似た経験を待つユイちゃんがアイドルとして活躍する姿に勇気をもらったことを話してくれた。
「大袈裟じゃなくて、私はユイちゃんに救われたんです。推すことが生きがいになっています。いつかユイちゃんはアイドルを卒業して、終わりが来ることは分かっていますが、その後も私は逞しく生きていけます。それくらいの勇気をユイちゃんから貰ったんです。馬鹿にする人は勝手にしてください。もう私はそんなことに負けないんです」
 思わず僕も――、と打ち明けそうになったが、それを言って疼く傷跡を共感し合うと、どちらかが恋に落ちてしまうような気がした。

 付かず離れず、嫌われることもなく、リンちゃんに出ていかれないように気を付けていた。やはり異性なので、共用のトイレやバスルームの後始末を丁寧に行った。
 そのお陰か、生活する上での苦情を言われたことがない。どちらかと言えばリンちゃんの方がずぼらで、朝の目覚ましベルをさっさと止めてほしい。乾燥機の中に衣類を置き忘れないでほしい。
 何か怒りを買うとすれば、ユイちゃんに対する裏切り行為だ。リンちゃんはその点に関して極度の潔癖で、僕が別のアイドルと握手しようものなら、不貞行為と見なすかもしれない。手頃な女性と二人で会っても浮気にならないが、ユイちゃん以外のアイドルに目を奪われれば、浮気が成立してしまう可能性がある。実際、「この子可愛いですよねー」と画像を見せただけで睨みつけられた。
 だが、それには同意できない。ユイちゃんを推す気持ちと、他のアイドルを見てしまう気持ちは別物だ。そもそも、握手は欧米風の挨拶に等しく、業務上の一環とも言える。“推しごと” として、ユイちゃんの所属するアイドルグループに新しい後輩が入れば、率先して挨拶に赴きたい。それが先輩を推すファンとしての、あるべき姿ではないだろうか。
 ユイちゃんに知られたら、もう握手してあげないとか、もう他の子に行かないでなどと言って、アイドルらしく拗ねてくれるはずだ。一ファンを本気で怒るわけがない。要するに、推しは浮気を許容する。異性との共同生活についても然り。
 極めて正論だが、正しいことが常に受け入れられるとは限らない。むしろ正しいことを主張するほど、それを感情的に否定する者と衝突してしまう。

 よって、久しぶりに入る新しい後輩のお披露目公演のチケットは、リンちゃんに内緒で申し込んだ。お披露目だけに倍率が高く、複数枚で申し込むと当選確率が下がりそうだが、仮に当たっても後方の席だろうと考えて、仲間と三人で申し込んだ。三人であれば最後列の席でも大いに楽しめる。
 公演の一週間前、代表者として申し込んだ仲間から当選の連絡があった。二日前からチケットの発券が始まり、それまで席は分からない仕組みだが、少しでも前で観たいなどの欲がなく、とても楽な気持ちだった。ユイちゃんが出演しないので、どんな席でも構わなかった。
 だが、そういう時に限って――とんでもない連絡が仲間から入った。三人並んで最前列中央の席だと。それはステージから僅か一メートルほどの距離で、観覧中はまばたきすら惜しい。不覚の尿意を催して中座するわけにはいかない。
 仲間の一人が提案した。オムツを履いていこうと。
 もう一人の仲間が疑問を投げかけた。オムツの吸水力は信用できるのかと。
 
 試してみることになった。浮かれきった僕たちは、初めて買った大人用のオムツをそれぞれ家から履いてきて、ドリンクバーのある賑やかなファミレスに集まった。少し贅沢な料理も頼んで、ドリンクを継ぎ足す度に「かんぱーい」とグラスを合わせた。どんな子がお披露目されるのか楽しみでならず、馬鹿々々しい話で盛り上がった。流石にそれぞれの推しには見せられない。僕は「浮気万歳」などと放言した。もちろん本心ではないが、大人の火遊びとして挨拶がてら鑑賞にいく。
 そして、本番を控えた水遊びだ。お茶系のドリンクをぐいぐい飲んでいるうちに、三人とも尿意が限界に達して、ついにオムツの信用度を試す時がきた。商品説明によれば、豪快に放尿してもしっかり受け止めてもらえるはずだが、仮にだだ漏れたら一大事だ。三十前後のいい年した男が三人、ファミレスで粗相を犯すことになる。場合によっては意図的な業務妨害として警察を呼ばれるかもしれない。
 僕たちは目配せをした。やはり止めようではなく、やってやろうぜと。三人の悪乗りは頂点に達した。
「いくぞー、いち、に、さん・・・」
 大きな声ではなかったが、通路を挟んだ隣の席に座る女性陣の一人がこちらを見た。見られながら解き放った。もう止めることはできず、手に汗を握った。僕らの運命はオムツに託された。仲間の一人が「はあああ」と気持ちよさそうな声を漏らして、卓上には笑いも漏れた。
「空いたお皿をお下げしてもよろしいでしょうか?」
 偶然だったのか、はたまた意図的だったのかは分からない。女性店員が最悪のタイミングで声をかけてきた。胸元の名札には “林” と印字されていた。僕は彼女の顔――目だけ笑っていない――を見た瞬間、正真正銘の失禁に変わった。温かい股間から漏れ出ている感覚はなかったが、彼女のバイト先を聞いていなかった不覚に項垂れた。

 

 この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年5月号に寄稿されています。今月は連載・連作2作品と、ゲスト作家による短編作品の小説3作品を中心に、毎週さまざまなコンテンツを投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品は、以下のページからごらんください。



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