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【小説】ふられて尚、単純につき 

 修一郎は、実に単純な男だ。故に、定職にいていないにも関わらず、恋人と僅か二か月の交際で結婚を確信した。早とちりした報告は、親や友人に留まらなかった。バイト先でも得意満面に触れ回った。そして、交際開始からの日数を律儀に数え、百日目の記念日にプロポーズを決意したが、あまりにも虚しく、その五日前に別れを告げられた。
 青天の霹靂へきれきの彼に、去りゆく恋人は言った。「女みたいにトイレが長すぎる男は嫌いなの」

 翌々週の日曜日、クリスマスイブを迎えた。修一郎は、バイト先のシフト表を休みのまま変えなかった。世話になっている店長に、何とか出てほしいと頼まれたが、面子めんつを保とうとして意固地になった。
 結局、暇なことに罪悪感を覚えた。余計に寂しくなった。
 午前中は、しょんぼりと過ごしたが、一日中引きこもっていられるほど陰気ではない。テレビから流れるCMソングに元気づけられた。

 華やぐ街へ出かけたのは、正午過ぎだ。木を隠すには森とばかりに、人ごみに紛れれば顔見知りに出くわさないと考えた。仮に、声をかけられることがあっても、まだ日差しの明るい真っ昼間、これからだと匂わすつもりで堂々と歩いた。
 それでも、遅めの昼ご飯は、大通りに面した店を避け、路地裏に佇むちょっとお高そうな洋食レストランに入った。メニューを見て、場合によっては恥を忍んで帰ろうと思った。ランプの灯った店内は、かつての文豪に愛されたような昭和の趣がある。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
 修一郎は、咄嗟に気取った様子で頷いた。その理由は、現れたお姉さんの笑顔がとびきり素敵だったからだ。
 あなたもお一人ですね?
 修一郎がそう思い込んだのは、クリスマスイブに働くことへの偏見だ。お姉さんは、ふくよかな体つきだが、だらしない印象を与えず、清楚な白いシャツをきちっと着こなしていた。
 修一郎は、ほんの一瞬を意識して、膨らんだ胸元の名札をぱっと見た。読めない名前が印字されていた。二人用のテーブルに案内されると、象牙色ぞうげいろの壁を背にして座った。
「お決まりになりましたら、お呼びください」
 彼女は、また素敵な笑顔を見せると、その場を一旦離れた。
 修一郎は、内心おびえながらメニューを開いた。入店前とは状況が変わり、恥をかくようなことはできない。料理の写真に添えられた数字は、店員の物腰と同じく、どれもお高くとまっていなかった。
 ほっと一息つくと、右隣の話し声が気になった。どうもその内容は、ど素人のオリジナル漫才だ。向かい合った二人組のおじさんが、珈琲を飲みながらこそこそと打ち合わせをしていた。いわゆるツッコミの担当が、往年の歌謡曲のフレーズ「違う違う、そうじゃない」を繰り返す。絶望的なネタに反して、二人の見た目は一応立派だ。忘年会か新年会で披露するとしたら、野心的な部下は、引きってでも笑うことを求められる。
 正社員も大変だな。
 修一郎は、鼻で笑ってそう思った。そして、ハンバーグかポークソテーのどちらにするか決めかねていると、空席だった左隣に髪の薄い老紳士が通された。案内役は、先程と同じお姉さんだ。
「今日はいないと思ったよ」
「私ですか?」
「そうそう、だって今日はクリスマスイブだから」
 老紳士は、どうやら常連のようだ。修一郎は、メニューに視線を落としたまま、そちら側の話に意識を集中させた。
「あ、そうか。今日は二十四日ですね」
「夜はパーティーかい?」
「まさか。クリスマスなんて、私には全然関係ないんです」
「ほう」
 お姉さんは、うっとうしい質問にも、にこにこと応対していたが、ここで話を打ち切るように「ご注文は、いつものオムライスでよろしいですか?」と訊いた。
「お、それでいいんだけど・・・ひまりちゃんは、一体どんな男がタイプなんだい?」
 老紳士が紳士的なのは、見た目だけのようだ。つい顔を上げた修一郎は、お爺だから許される質問だよ!と思った。
 お姉さんは、ふふっと笑い、「よく食べてくれる人ですね。私がけっこう食べるので」と答えた。
「ほう。それなら今日は、エビフライも頼むよ」
「え、無理しないでください」
「本来の僕は、昔からよく食べる方でね。普段はダイエットしているんだよ」
「あら、そうでしたか」
 お姉さんは、決して不愉快そうではなかった。
 きびすを返した彼女を呼び止めたのは、聞き耳を立てていた修一郎だ。そして、ハンバーグとポークソテーの両方を当然のように注文した。
「ライスは、お一つだけセットでよろしいですね?」
「はい。大盛りにしてください」
「かしこまりました」
 修一郎は、食後にデザートも注文しようと企んでいた。

 しばらくすると、別の店員が隣の席に料理を運んできた。ふんわり膨らんだオムライスと三本の大きなエビフライだ。お爺さんは、キャベツの上にそそり立つようなそれを見て、苦笑いを浮かべた。
 修一郎の注文した料理も、その店員が二度に分けて運んできた。ライスは、大盛りのわりに少なめだが、肉料理のコンビは、やはりボリューム満点だ。ハンバーグは、デミグラスソースが香り立ち、チキンソテーは、皮が黄金色こがねいろに焼き上がっていた。
 修一郎は、ゆっくり食べようと思った。おもむろに席を立った素人漫才コンビに続き、お姉さんとの話に割り込んできそうなお爺さんも、先に帰ってほしかった。タイミングさえ合えば、自然に話しかける自信があった。珍しいお名前ですねと。
 下の名前は、ひまりだ。お爺さんから聞かされたことを悔しく思った。歳の差五十ほどで、張り合う気満々という滑稽こっけいさだ。
「お兄さん、一本どうだい?」
 片やお爺さんは、張り合うつもりなど毛頭ない。エビフライの乗った皿を修一郎の方へ寄せた。

 修一郎がエビフライを貰った後、二人は特に言葉を交わさず、黙々と食べた。お姉さんが「お水はいかがですか?」と一度ぎ足しにきたが、お爺さんは意外にも、短くお礼を言っただけだった。
 そして、お爺さんの方が先に食べ終わり、あっさりと店を出た。
 修一郎は、思惑通りの展開に胸をばくばくと高鳴らせた。自信が揺らぎ始めた。いざという時、分かりやすく緊張するタイプだ。
 こちらに近づいてきそうなお姉さんが見えると、先程注ぎ足してもらった水を一気に飲んだ。

「お水はいかがですか?」
「あ、はい。いただきます」
 自ら演出した好機だが、修一郎はそれ以上の言葉が出てこなかった。目を合わせられなかった。たどたどしく尋ねて恥をかくくらいなら、今日は気のないふりをして、また来ればいいと思った。
 あのお爺よりも通ってやる!
 そう決意して間もなく、トイレで用を足したくなった。小ではなく、大だ。忘れ得ない痛烈な言葉が頭をよぎった。
 トイレが長すぎることで恋人にふられた修一郎は、裏返しに置かれた伝票をさっと手に取った。レジへ向かうと、店に来た時と同じ素敵な笑顔が迎えてくれた。何人か店員がいる中でのこの巡り合わせに・・・運命を感じてしまった。
「また来ますね」
「有難うございます。お待ちしています」
 修一郎は、手元の残金を見て、デザートを食べなくて良かったと気付いた。すべてが上手くいった気分だった。
 浮かれた足取りで店を後にしたが、トイレを探さなくてはならない。大通りに出て、目についたコンビニに入ると、明らかに年下の可愛らしい女の子が店員として現れた。瀬戸際とも言える急用を悟られないように、何気なく商品を眺めるふりをした。ご使用の際はお声がけください、とドアに貼り紙がしてあるトイレを使わなかった。
 少し離れたコンビニへ、人の間をって小走りで向かった。以前立ち寄ったことのある店だった。その時の店員は、どことなくカピバラに似たおじさんと数人のおばさんだった。
「いらっしゃいませー」
 期待通りのおじさんが、しもぶくれの顔でこちらを向いた。この人になら、何を思われても構わないと思った。
「すみません。トイレを貸してください」
「あー、うちはトイレを貸してないんだよー」
「何か買っても駄目ですか?」
「ごめんねー」
 都会ならではの世知辛い事情だ。文句を言っている場合ではない修一郎は、店を飛び出すと、先程のコンビニへ戻るか考えた。大通りの向かいには、新装開店したばかりの電気屋のビルが立っている。玄関の両脇には、身の丈ほどのクリスマスツリーが飾られている。
 たしか、ここはトイレがなかったような・・・
 そんな気がしたのは、開店翌日に興味本位で訪れていたからだ。その時は、差し迫った状態ではなく、店員にも尋ねなかったが、五階建てのこれほど大きな店なら、ある!あるに決まっている!と思い直した。幸運にも、目の前の信号は青だ。
 電気屋の中へずんずんと突き進み、サンタ帽を被ったおじさんの店員に声をかけた。目が合うと、誰かに似ていると思った。
「すみません。トイレありますか?」
「はい。ございます。あちらのエレベーターから、一つ上のフロアに上がっていただき、右手に進んでいただくと、正面にございます」
「わかりました。丁寧に有難うございます」
 言い終えると、誰に似ているかもわかった。あの素人漫才コンビの片割れ、ボケ担当の方だ。
 上りのエレベーターは、偶然前に人がいなかった。修一郎は、やんちゃ坊主のように駆け上り、言われた通り右に曲がった。そして、真っ直ぐに進むと、たしかにトイレはあったが・・・
 違う違う、そうじゃない!
 そこは、トイレ売り場だった。様々なメーカーの洋式便器がずらりと並んでいる。
「どんなトイレをお探しですか?」
 不運にも、その店員は見目うるわしい。だが、限界だった。
「トイレを、貸していただきたいです」
「お客様が今、お使いですか?」
「はい。そうです」
「でしたら、奇数階にございますので、一つ上か、一つ下のフロアに行っていただき、どちらも左手奥にございます」
 修一郎は、面子を気にせず慌てて引き返した。上りのエレベーターを直感で選び、左側に立つ数人を大股で追い越した。
 ようやくトイレを視界に捉えて小走りになると、女子トイレから出てきた人と危うくぶつかりそうになった。
「あっと、すみません」
 実に単純な男は、またも勘違いした。これぞ運命の出会いではないかと。

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