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[小説] ショパンと告白

「付き合ってください」
差し伸べられた手を見てジューンは一瞬思案してそばにあった木を指差した。
「あれを倒したら付き合ってあげる」
ジューンは足早に去った。今日は学校終わりにピアノ教室があった。大して好きでもなかったが、行かなくてはいけなかった。

**翌日**

「ねぇ、あれ」
ジューンはクラスの騒めきを聞いて、窓から外を覗いた。一限目の授業中であったが、そこには校舎よりも高く生えた木を半狂乱になって殴りつけている男子学生の姿があった。
どすん、どすん、どすん。
男子学生は出鱈目なフォームで、体を捻って木に拳を当てていた。到底、倒れることはなさそうだった。
「怖いね」
「うん」
ジューンは友人の言葉に感情を込めずに頷いた。彼女の頭の中はピアノで埋め尽くされていた。
彼女が今練習している曲はサティだった。彼女はショパンが引きたかったが、先生の別れた恋人がショパンを好きだったから、彼女がショパンを弾くことは許されなかった。
ジューンは黒板を見た。並べられた数式に何の法則性も見えない。
どすん、どすん、どすん。
チラリと窓の外を見る。
どすん、どすん、どすん。
こっちの方がまだ。
どすん、どすん、どすん、どどすんすん、どすん、どすん。
今日はピアノをサボろうかな、と思った、が、結局、行った。

**同窓会**

「聞いた?あれ」
「あれって言ってもわかんないよ」
「木、倒れたらしいよ」
「え?」
「ずっと木を殴ってたやつ、あのキチガイ。高校でずっと木殴ってたの知ってるでしょ」
「あぁ、いたね」
「あいつ、卒業してからも学校に忍び込んで、ずっと木殴ってたらしいよ」
「へぇ」
「で、つい三日前に、殴ってた木が倒れたんだって」
「へぇ」
「そんときあんたの名前を叫んでたらしいよ」
そのとき、同窓会の会場の扉の方にざわめきが起きた。ジューンはそちらの方に首を向けた。
真っ白なスーツに身を包み、髪はボサボサで目と耳の裏に垢が溜まっていて、分厚い黒縁メガネをかけた男子学生がジューンに向かって全力で走っていた。
彼は仄かな発酵した匂いを引き連れていた。
「結婚してください」
男子学生は滑り込みながら土下座をした。
「ごめんなさい」
ジューンは間髪入れずに言った。
男子学生は顔を上げた。とても情けない表情だった。
「そんな、木を倒したのに」
「ほんとに倒すなんて、学校に忍び込んだって聞いてるよ」
男子学生は項垂れた。
ジューンは男子学生の肩に手を置こうとした。
瞬間、男子学生はウサギのように飛び上がって
「万歳、万歳!彼女は僕の話を聞いていた!僕が伝えるまでもなく、彼女は僕のことを知っていた!」
男子学生は宙を舞って、そのまま壇上に置かれたピアノの席に着地した。
そしてスッと息を大きく吸い込んで、吐くとともに演奏を始めた。
それは米津玄師のlemonだった。
男子学生は、それはそれは楽しそうに弾いていた。
ジューンは終始真顔だった。
ジューンは付き合わなくてよかった、と思った。
それから、ジューンは三歳から続けたピアノを辞めた。


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