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トンネル ―国境(くにざかい)であること―

 私は長い間列車に揺られることになった。
 飛行機で向かう方が早い気がするが、目的地は空港からとても離れていて、結局電車とそう変わらない――下手するとそれ以上の――時間がかかる可能性もある。
 半分仕事、半分私的な旅行気分で、駅弁など選んで購入し、席についてから穏やかな気持ちで車窓を眺めていた。
 景色は全体的に山吹色で、枯れた畑や米を収穫した枯れ草の後が延々と続いていた。
 気まぐれのように大きな農家のものらしい家が立っていて、決まっているかのように大きな屋根付きの車庫がある。遠目に見ると、小型のトラクターや肥料らしい袋の山、自転車、段ボール、色々詰め込まれているようだった。
 こういうのんびりとした景色を久しぶりに見た気がする。飛行機ではこうはいかない。
 会社と自宅の往復が続いていたので、この長い列車の旅はかえって良い息抜きになりそうだった。
 会社は主に医療関係のソフトウェアの開発をしており、私は3DCGグラフィック制作のチームリーダーだった。
 今回の出張は、プログラムを本格的に依頼するだろう先方と、今後しばらくは何かと連絡をとりあうことを見越したものだ。
 当面の仕事は、担当者への挨拶とこれから合同で行うプロジェクトの打ち合わせや会議が中心だった。
 これから長く深いつきあいになる会社なので、顔見せを兼ね、直接挨拶にいくのだ。
 スカイプやチャットがある時代なのに、こういうことは古くさい考えかもしれない。
 しかし、スマホでいつでも連絡が付いてスカイプがある時代だからこそ、こういった「特別な儀式」で空気感を共有して信頼関係を築くことが円滑に仕事を進めるのに重要なプロセスになる時もある。
 つまり、そういうことでの今回の小旅行なのだ。
 運の良いことに、会社が用意してくれたビジネスホテルは湯沢温泉にも近く、温泉に入りに旅館や入浴設備に足を伸ばしてもいい。
 重要なミッションではあるが、私の頭の中はすでにご当地グルメと温泉で占められていた。
 最初は珍しかった車窓からの眺めも飽きて、腹も膨れて車内はほどよく温かく、眠気を誘うには十分の心地よさだった。
 いつものように脇腹に手を添えて骨をなぞると、窓に額をつけもたれかかる。
 しかし、普段乗り慣れない列車でうたた寝をする気にもなれず、眠気覚ましに車両を歩いて回ることにした。
 貴重品だけ身につけて、荷物はそのままにしていく。
 足許が揺れる中、踏ん張りながらバランスをとり、前に進んでいった。
 車窓が景色を連結して流す液晶テレビに見え、不規則に揺れる足許は平衡感覚を狂わせていく。
 吊革につかまりながら、ゆっくりと前に向かってえ歩いていく。
 そういえば運転席から前の景色が見える設計の車両もあるな、面白いかもしれない。
 前に向かって、ずっと歩いていくことにした。
 連結部分にある一枚目のドアは閉まっていて、向こう側にもう一枚ドアが閉まっているのが窓ごしに見えた。
 車両が揺れるたびに向こうがわのドアが左右にくねるように揺れる。
 揺れが収まるのに合わせてドアノブに手をかけた。
 その時、
 ――
 一瞬で車窓が真っ黒になった。
 すべての車窓がだ。
 振り返っても、連結部分の二重になったドアの窓から前の車両を見ても、例外なく車窓は黒かった。
 驚いて乗客を見ると、誰も何も反応しない。寝ていたり、本を読んでいたり、スマホをいじったり、ぼうっとしていたり、連れとおしゃべりをしている。
 耳につんとした痛みが走る。
 ――
 ああ、トンネルに入ったのだ。
 なんのことはない、たいしたことではなかった。
 上越線名物のトンネルへと突入したのだ。
 景色を見ようとした私の期待はただの黒に塗りつぶされ、白々とした電灯が車内を照らし出しているだけだった。
 ドアが開いて、ゴーッという音がした。
 耳を突いたのは、連結部分特有の剥き出しの騒音だ。
 ドアノブにかけたままの手で、無意識に開けてしまったのか。ドアを開けたら、入る。それが自然の動きだ。
 私はぼうとしたまま一歩を踏み出し、蛇の鱗のようにうねっている連結部分の床を見た。
 これに足をとられるとやっかいなことになる。こんなに不安定なものをよく剥き出しにしているものだと思う。
 一足で跨げる距離とはいえ、黒ずんだ凹凸の滑り止めが施された鉄板が絶対的な力でゆらゆらと擦りあっている様子は、見ていてぞっとする光景だった。
 左右と天井にある蛇腹の布もなんだか頼りなくて、全体重を乗せたら破れてしまいそうに思えた。
「やあ、久しぶりのお客さんだ」
 声変わりをしたばかり、といった高さの若い声がして、同時に背後のドアが少々乱暴に閉まった。
 目の前にはいつの間にそこにいたのか、少年が連結部分の床に座っていた。
 列車が走っている間ずっと不安定なはずの床に、ゆったりと、リラックスをしている様子でいる。
 二枚のドアにはさまれて、連結部は狭い個室になった。
 この少年は一体いつからここに座っていたのだろう? 
 そもそも、その存在に気づかなかった。
 それに、お客さん? 
 何のことだろう。
 軽い目眩を感じながら、私はとにかく冷静になるように努めた。
 暗く狭い連結部で少年と二人きりだ。
 しかし、それが何だというのか。
 奇妙な感じはしたがずっとここにいるわけにもいかない。
 少年を避けながら、前に進むドアを開けようとドアノブに指をかけた。
 私の予想に反して、ドアは元から開くように設計されていなかったかのように、一ミリも動かなかった。
 それなら逆を、と後方のドアノブに指をかけるが、やはり動かない。
 開かないのではない、動かないのだ。
 ドアがドアであることをやめてしまって、完全に鉄の壁の一部に変化してしまったようだった。
「まあそう急がんでいいでねえ。最近の人って、せっかちだよね」
 最近の人? 
 少年が口にするには、違和感を感じる言い方だ。しかし、それはとても自然な言い方で、どこにもわざとらしさはなかった。
 彼にとっては実際、私は純粋に「最近の人」なのかもしれない。
「君は……ここで何をしているんだい?」
 一向に変化のない車内を見渡しながら、なるべく動揺を悟られないように聞いてみた。
「それきいてどうするの?」
 彼はすっかり聞き飽きた、という風に、無関心に返した。爪先に目を落として、ちょっと爪が伸びてきたかな、という風に少しだけ首を傾げる。
「どうすると言われても困るけど」
「困るくらいなら聞かねえでほしいな」
「そう言われても――」
「ここはクニザカイっていうんだ」
「くにざかい……?」
 国境ってことか?と思ったが、言っている意味はわからなかった。
 数秒を費やして冷静さを取り戻すと、少年に目を落として観察した。
 彼は床に座って右膝をたてて、その膝に両手を重ねている。顔つきはまだ幼さが残り、瞼が厚ぼったくて、そのせいか眠そうな半眼をしている。
 少年のまわりにあるのは、
 数本のペットボトル飲料、
 ビニール袋に入った複数個のパン、
 数折の手がつけられていない駅弁、
 マンガ雑誌の山、
 野球帽や丸められたシャツらしきもの、
 それからくしゃくしゃの毛布。
 トイレの個室と同じがそれより狭いスペースに、少年と彼の荷物と、私がいる。
 もちろん足の踏み場などない。
 少年は横を向いてふうーっとため息をつくと、「おれは佐一郎。十三歳。ここに住んでる。ここがおれの世界のすべて」と自己紹介をした。
 佐一郎とはなかなか古風な名前だ。
 私も名を名乗るべきか迷い、ただヤマムラ、とだけ返した。
「ヤマムラさん、ね。さっきも言うたんだども、人と会うのはずいぶん久しぶりなんだ。よろしゅう」
 近くにあるマンガ雑誌を指でめくりながら、ゆっくりと言う。
 いや、ページをめくるというより、捌くように一ページずつ、ペリ、ペリ、と親指ではじかれる音がする。
 彼はその行為自体については興味がない様子で、ただ手持ちぶさたなのではじいている、といった印象を受けた。
 久しぶりに人に会ったと言うわりには、彼からは何の感動も好奇心も楽しさも感じない。
 嬉しいわけでもなく、それが日常とでも言いたげに動揺せず、ただ座っている。
「時間がねえすけ前置きなしでいうども、このトンネル抜ける間だけ、おれはここにいられるんだ。うん、現れるっていう方が正しいかな。そしておめさんは、トンネル抜ける前に躯の一部ぼくに差し出さんばならねえ。差し出せば、ここから出られる。言うてる意味、わかる?」
 自然の絶対の法則を話すように、少年は妙に大人びた口調で一気に言い切った。
 理解はできた。
 すぐに信じることは難しかった。
 しかし、彼が言うことが本当なら時間は確かにないし、最優先事項で決断すべき案件なのだろう。
 現実とは思えない状況を突きつけられて、半ば夢でもみているような心持ちのまま考えた。
「トンネルが終わったら……終わっても躯を差し出さなかったら、どうなるんだ?」
「そうだなあ。ぼくにもわからねえんだ。正直、なして躯の一部おいていかなきゃならねえのか知らねえし、選べねかった連中がどこに消えていったのかも……知らねえ。まあとにかく、なるべく急いだ方がいいども、そうあわてねえで、じっくり考えるといいよ。なにせ、この清水トンネルはとっ……ても長いすけね」
 佐一郎はそう言うと、ペットボトルを一本とって、ゆっくりと中の飲み物を飲み込んだ。
 上下する小さな喉仏を見ながら、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
 そうして、国境というのはこのトンネルのことかと思い当たった。
 とはいえ、何のことかさっぱりわからない。
 トンネルは確かに群馬県と新潟県の間にあるトンネルで「境目」ではあるけれど「国境」というほど大げさなものではなく、どちらかというと「県境」ではないだろうか、などとまで考えて、佐一郎が言いたいのはそういうことではないのだと思い返した。
 突然のトンネル、真っ黒な車窓、反応のない乗客、開かないドア。
 連結部分に閉じこめられて、佐一郎と名乗る得体の知れない少年と二人きりのこの瞬間、私はどうも重要な決断を迫られているようだ。
 トンネルを抜けるのに何秒くらいかかるだろうか? 
 長いトンネルだと知ってはいたが、三十秒だろうか、四十秒だろうか。それとも六十秒だろうか、それ以上かかるだろうか。
 とにかくトンネルの中を走っている間に、決心しなければならない。
 どの躯の一部をおいていくべきか。
 おいていくべきか?
 どうして私の中でそれがすでに決定してしまっているのだろう。
 他にこの空間を脱出する方法があるかもしれない。
 それに少年が言うことはハッタリかもしれないし、悪質な悪戯かもしれないのだ。
 それをどうして素直に受け入れてしまっていたのだろう。
 私は冷や汗が脇を伝っていくのを感じた。冬でもないのに寒気を感じる。
 それは気温が低いからではなくて、自身が高熱を出した時の悪寒のそれだった。 
 両手で力いっぱいドアを叩いてみた。やはり開くことはない。揺れもしない。ただの堅い壁を叩いているだけの感触が帰ってくる。
 ゴトゴトと振動する足の下は電車が進んでいる証拠で、トンネルはやがて終わる。
 どうしようか考えあぐねていると、少年が億劫そうに右手を挙げて、私の躯の右側を指さした。
「そうだな、じゃあその右腕なんてどう? そのくらいで丁度いいよ」
 私は首を振りながらとっさに右腕をかばった。まさか利き腕を差し出すわけにはいかない。仕事にだって支障をきたしてしまう。
「どうせその右腕は吊ってるでねえ。何か怪我でもしたの?」
 佐一郎は私を無視して話をどんどん進めていく。
 何を言っているのか。
 右腕を吊って? 
 私は彼の指先を目で追って自分の右腕の不自由さに気づき、愕然とした。
 右腕前腕は骨折でもしたのかグラスファイバーのギプスで固定されブルーのアームホルダに入っていた。
 しかしギプスは手首までで、手先だけは空気に触れていた。私の右腕はいつの間にこんなことになった?
 そういえば弁当を食べる時にひどく不便をしたような気がするが……なるほどこの右手で箸を使ったのか。その思い出は……かすかだがある……今思い出した……弁当が食べにくかったののは、右腕が動かせなかったからだ。
 いやまて、何かがおかしい。
 佐一郎は私の様子をさも楽しそうにニヤニヤと見つめていた。
「利き腕はやっぱり、不便だよねえ。だーすけ(だから)いやだよねえ」
 頬杖をついて、佐一郎が言った。
「足がねえと、やっぱり不便だよねえ」
 気温が一度下がったような気がした。
 両足がまるで痺れたようになって、バランスを崩し床に崩れ落ちた。床に上半身が放り出されるようになって、訳がわからないまま腹から下を確認すると、足があるはずの空間には佐一郎の雑誌が山積みになり、雑貨の合間に上半身が埋まるようになっていた。
「鼻は……のうてもいいども、ちょっと見栄えが悪うなってしまうすけねえ」
佐一郎が何を言っているのか、しばらくはわからなかった。
 鼻が、どうだというのか。
 ふと、さっきまで漂っていた油臭さがないことに気づいた。
 何もにおいを感じない。
 慌てて鼻に手を当てると、そこにあるはずの突起した部位はなくなっていた。
 信じられない思いで何度同じ部位を撫でても、そこは平らで、小さな穴が二つ空いているだけだった。
 呼吸のような風が、穴を出入りする。
「目だと……ばか(すごく)不便だよねえ」
 佐一郎が言い終わる前に、目の前が真っ暗になった。
 パニックになって、両手を前に出す。だが、手どころか、腕さえ見えない。
 佐一郎も、佐一郎の私物も、アコーディオンの壁も、何も見えない。
 目を瞑った時のような、瞼の裏に見える蠢く靄や模様もない。
 目を瞑っているのではないのだ。
 視力がなくなっているのだ。
 私は、背筋に冷たいつららが差し込まれたような感覚に震えた。
「いっそ心臓とか……」
 じりじりと、虫をいたぶるようなサディスティックで無邪気な声が呟く。
 そんな佐一郎の言葉に合わせて、突然耳の奥で鼓動が聞こえた。
 どくん、
 どくん、
 どくん。
 やがて、その音がゆっくり、小さくなっていく。
 まるで胃の腑に冷たく重いものが落ちていくような気分になる。
 ふうーというため息が聞こえて、佐一郎の姿が暗闇の中に浮かんだ。それは滲むように広がっていって、足の踏み場もない荷物や連結部分の剥き出しの金属が見えた。
佐一郎はニヤニヤと笑いながら、何かピンク色の塊を手にしている。
 佐一郎の手から少しはみ出すくらいの大きさのそれは、リズミカルに収縮していた。
 よく見ると、それは心臓だった。
 それを確認して、自分の心臓であることを確信する。
 佐一郎が持っているのは、私の心臓だ。
一体何が起こっているのか。
 半ば呆然とし、まるで心が鈍く麻痺した状態にあるような気がした。
これは悪夢なのか。
 それとも幻なのか。
 私はすがれる確かなものを探して、ドアに手を当てた。
 冷たくて、堅い。
 囂々と聞こえる風音、
 擦れあう連結部分の金属の、
 伸縮して耳障りな音楽を奏でるアコーディオンの壁、
 酸化した油の臭い、
 震動、
 佐一郎。
「こんげな(こういう)ことだよ」
佐一郎の間延びした声が聞こえる。
 我に返ると、私の四肢や五感は無事で、佐一郎の目の前にただ立ち尽くしていた。
 気づくと、凝り固まったゴムの臭いがする。
 手足に触れ、その感触に安堵した。
 そんな私とは裏腹に佐一郎は落ち着いていて、首を傾げて一方的に言った。
「そういえば、親知らずおいていった人がいたなあ。うまいこと考えたよね。親知らずなんてのうても不便でねえし、どうせ抜くんだったら、ここにおいていった方がいいものねえ」
 くすくすと笑う。
「だども(だけど)もう親知らずは持ってるすけ、おいていくことはできねえよ。ああそうそう、後出しになってしもうたども、もうあるものはいらねえすけね。ちゃんと選んでね」
 もうあるものはいらない?
 今まで人間たちがおいていった躯の一部と同じ部分は、もういらないということだろうか。
 それは確かに、後出しだ。
 ただでさえ難問であるのに、さらに難易度が上がった。
「決めた?」
 混乱から目が覚めるように、佐一郎の声が考えの中に射し込んできた。
「トンネルはすごぅ……く長いども、そろうと(そろそろ)終わるんでねっかなあ。どの部位にするか、決めた? ヤマムラさん」
 息が苦しかった。まるで水の中にいるように、息をしたくても躯が「できない」と拒んでいる。冷や汗と脂汗で不快な上、震動と轟音とゴムが焼けたような悪臭がする。
 何を――
 何をおいていく?
「――これを!」
 声が掠れていた。
 納得したように、佐一郎がにこりと笑う。
「決まったみたいだね。よかった。ああ、ギリギリだよ。おれも冷や冷やしてしもうた。久しぶりだなあ」
 佐一郎はゆっくりと右手を挙げて、それに導かれるように私は跪いた。
 それから、「それ」を差し出す。
「これおいていくんだね。意外だよ、やっぱりおもしぇ(面白い)人だ。最初からそう思うたったんだよね。きっとおもしぇ人だろうって」
 満足そうに佐一郎が笑って、あの眠そうな目が――意識が遠のいて、渦巻きをはじめる。
 ぐらぐらと揺れていて、気分が悪くなる。
 ひどい目眩と吐き気。

 暖気が鼻先を温めて、ふと目覚めた。
 四人席に一人で座っている。
 着替えが入った荷物と、手みやげと、駅弁。
 単調なテンポを刻んで軽い震動と音がして、電車が走っているのがわかる。
 窓に額を押しつけていたので、そこが痛む。額を撫でながら窓の外を見ると、見渡す限り白色が広がっていた。
 目を刺すように太陽の光を反射して、ところどころに、道路や歩道のような細い線が走っている。
暗い連結部分ではない。
 さっきの体験は夢だったのか。
 すとんと座席に座って、しばらく呆然としていた。
 それから気づいて、脇腹から沿って背中の方へ左手を当てた。
 いつもあるはずの感触がなくなっていた。
 ……確かに……佐一郎の元においてきた。
 トンネルでの出来事は本当にあったことなのか。佐一郎は存在したのか。躯の一部をおいてきたのか。
 私は、13番目の肋骨を選んだ。
 チンパンジーやゴリラには存在するのだが、人間のそれは退化して12本しかない。左右あわせて24本だ。
 しかし、13番目の肋骨を持つ人間がいる。
 それは、活動する上で全く必要のない骨で、進化の過程で退化し、なくなってしまった。しかし、8%の人類はそれを持っているという。
 私は、その8%の人間だった。
 13番目の肋骨は、間違いなく私の躯の一部だ。
 それを、おいてきた。
 脇腹を撫でていた左手をおろして、すでに朧になりかけている記憶をたぐった。
 佐一郎はどうしてあそこにいたのだろう。
 躯の一部をおいていかなければならないのはなぜなのか。
 集めた躯の一部をどうするつもりなのか。
 ――それは佐一郎もわからない様子だった。考えても無駄だろう。
「あのう……トンネルは過ぎましたか?」
 近くの席に座った老婆に、ふとたずねてみた。
 ふっくらした顔をした老婆は不思議そうな顔をして、「ええはい、通りましたよ」と言った。
「清水トンネルですか?」
「はあ? いえ、ええと、新清水トンネルです」
「新清水?」
「ええ。昔は、清水トンネル行き来してましたね。ええと、なんですか、川端康成のほら、小説。雪国で。あの頃は清水トンネルでしたね。だどもその後新清水トンネルができましてね、それがさっき通り過ぎた下りのトンネルですよ」
「じゃあ清水トンネルは……」
「今は上り専用ですねえ。私が生まれた頃からずっとそうですよ」
 老女は親切にもそう教えてくれて、私は丁寧に礼を言って自分の座席に戻った。
 あのトンネルは、清水トンネルだった。
 確信があった。
 佐一郎がそう言っていたではないか。
 「この清水トンネルはとても長い」と。
 スマホで調べてみると、昭和四十二年に新清水トンネルができたせいで、清水トンネルは東京への上り専用のトンネルとなった。
 つまり、川端康成の「雪国」にあるように「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」という体験はもうできないのだ。
 私がくぐり抜けた清水トンネル――あれは一体何だったのだろう。
 改めて見ると、座席には私の荷物と食べ終えた駅弁がおいてあった。
 それはとても無造作で、そこにはぬるま湯につかるような紛れもない日常があった。
 
             ―― 了 ――

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