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SAYAKO

 山口紗矢子。彼女の名前を思い出したのはずいぶん久しぶりだった。強烈な個性を放っていた彼女はその釣り上がった目でじいっと僕と見つめて、煙草を吸っていた。紅く塗られた唇から紫煙がゆるゆると漏れて出る。それは彼女がまるで仙女のように見せたが、やはりするどい目つきでそれが幻想だと思い知らされるのだ。
 僕は喫茶店でぼんやりと本を眺めながら、昔彼女が座っていたソファを意識した。彼女は今でも座っているかのようだ。ウェイトレスがすっとやってきておかわりのコーヒーをついでくれる。ここはおかわり無料だ。だから気に入っているというわけではないが、よく使う。そして彼女の気配のかすかな残留物を感じる。空気を吸うと、まるで今でも彼女があの席に座っているかのように感じる。
 紗矢子は何をするでもなく、煙草をふかしていた。たまに話しかける大学生らしい若い男(近くに大きな大学があるのだ)としばらく話して、喫茶店を一緒に出て行くこともあった。それ以外はじっとしている。何を見据えるような鋭い目をして、それは一種の近寄りにくさを醸し出していたが、大学生たちはそれを感じないようだった。僕が見かけただけで何人だろうか。どれも同じくらいの年頃の顔と服装が違う男が紗矢子と話し、一緒に出て行く。紗矢子が戻ってくることはない。でも翌日にはやはり同じ席に座っているのだ。
 僕はだんだん紗矢子と大学生が何の話をして、一緒に出て行って何をしているのかが気になり始めた。煙草をふかす紗矢子を横目で見ながら、いつものように喫茶店に入ってきた大学生の気配を感じる。ドアベルがカランと鳴って、ウェイトレスが顔をのぞかせる。「すぐ出て行くんで」大学生はそう言うと、紗矢子の席へ歩いて行った。座席に座ることなく、やはり紗矢子と何かを話す。その声はひそひそ声よりは少し大きく、それでいて聞き取れない微妙な大きさだった。その大学生と紗矢子は少し話して、紗矢子が立ち上がった。僕は予め取り出しておいたコーヒー代をテーブルにおくと、そっと彼女と大学生の後を追った。人を尾行するなんて初めての体験だった。見つからないように距離をとって、物陰にさりげなくかくれたり、人の陰にかくれたり、テレビなんかで見聞きした尾行の技術を駆使して二人を追った。しかし二人は尾行のことなどまったく気に留めていない風に振り返ることもしない。それどころか会話さえない。紗矢子は新しい煙草を取り出して使い捨てライターで日を点け、煙草を長く白い指で摘んでゆらゆらと歩いていく。大学生は前を真っ直ぐに見つめて紗矢子の方を見ようともしない。ある意味長い付き合いのあるもの同士という感じだが、お互いに全く興味が無いという風にも見えた。十五分ぐらい歩いただろうか、あたりはなんだかじめついたアスファルトの道路になり、野良猫がうろうろしている路地に入った。昼間でも無駄に派手な電飾の看板と「休憩」の文字でそこがラブホテル街だと気づく。いつの間にか通りには紗矢子と大学生と僕しかいなくて、僕は身を隠すのに苦心した。しかし二人は僕に全く気づかない様子でぶらぶらと歩いている。やがて大学生が紗矢子を促し、一軒のホテルに入っていった。
 僕はそれを見て、混乱した。どういうことだ? どうして紗矢子が大学生とホテルに入っていくんだ? それから紗矢子と大学生の間で行われる行為を想像して胃から酸っぱいものがこみ上げるのを感じた。隠れていた看板から立ち上がり、紗矢子が入っていったホテルの入り口を呆然と見つめる。彼女は他の大学生とも同じようにホテルにいっていたのだろうか? あのしばらくの会話はホテルにいくかいかないかの相談なのだろうか? しかし彼女は大学生の誘いを断ったことはない。大学生に声をかけられると、少し話してから席をたつ。そしてきっとそれぞれとホテルにいっていたのだろう。
 僕は急に薄ら寒い気持ちになって、立ち尽くした。彼女のことが好きだったわけではない。ラブホテルにしても、僕だって使ったことはある。彼女の謎がひとつ解けたことですっきりするはずが、なんとも言えない重い感じを胃の腑に感じた。僕は二人が出てくるのを待たずに、喫茶店に戻った。帰りはずいぶん時間がかかったように感じた。二人の背中をひたすら眺めてやってきた割には帰りはスムーズだった。いや、何も考えられなかった。喫茶店の寂れた桃色のドアの前で、しばらく立ち尽くす。それからドアを押すと、カラン、とドアベルが鳴った。
「あら、またいらっしゃったんですか」
 ウェイストレスが笑みを浮かべて迎えてくれる。僕は何も言わずいつも座っている座席に腰を下ろした。
「ホットコーヒーでいいですか?」
 僕は無言で頷いて、テーブルに肘をつくと両手をぎゅっと合わせた。それからラブホテルに入っていった二人のシーンを思い出す。何の迷いもなく、会話もなく、黙々とラブホテルに入っていた二人。今頃何をしているだろう。そんなことは決まっている。まさかラブホテルにいってオセロをやっているわけではないだろう。僕は嫌な考えが広がるのを抑えて、手のひらにぎゅっと力を込めた。ウェイトレスがコーヒーを持ってきて、何かを含んだ目で僕を見て下がる。僕は堅く結んだ手をほどいて、熱いコーヒーをひとくちすすった。特に美味しくもなんともない、普通のコーヒーだ。しかしその時はとても苦くかんじた。まるで石油を飲んでいるような生臭さもあった。僕はコーヒーを一口飲んで顔をしかめ、元に戻した。僕の舌は死んだようになっていて、うまくしゃべることができないかもしれないと思った。
 彼女は喫茶店にしばらくやって来ず(つまり僕は毎日喫茶店にいる)一週間ほどして現れた。あの鋭い目で自分が座る座席を見つめて、当然のように座る。それから煙草の箱を取り出して蓋を開け、一本取り出す。ライターのカチカチッという音がやけに大きく聞こえた。彼女はアイスコーヒーを頼んで、煙草を吸いながらじっと正面を見つめていた。次に誰から声をかけられるのを待っているのか、何か考えにふけっているのか、僕にはわからない。ただ端正な彼女の横をそっと盗み見て、ホテル街のじっとりした湿気を思い出した。
 じっと見つめると、彼女の白い肌が光を受けて輝いていた。まるで一度も日にあたったことがないような青白いほどの白さで、唇だけが生々しいピンク色をしていた。唇は少し横に大きくて、たまにその隙間から紫煙を吐き出す。ゆっくりと、呼吸をするように。大人びた雰囲気とは裏腹によく見ると童顔だ。顎の辺りで切りそろえられた黒髪が目の鋭さをさらに際立たせる。いつも黒い体にぴったりと貼り付くような服を着ていて、小さな胸のラインが見て取れる。僕はそっと目線を外して、彼女はブラジャーをつけているのだろうか?と考えた。ラブホテルのことから考えを反らしたかったからだ。しかしブラジャーはやがてはずされて彼女の小さな乳房があらわになり、大学生の目の前にさらされると考えると僕は頭を抱えたくなった。その日は彼女が帰るまで誰も来なかった。彼女はアイスコーヒー一杯で五時間ほど喫茶店にいて、小銭をおいて出て行った。喫茶店はいつも空いていて、何時間いても嫌な顔はされなかった。
 翌日、僕は新しく借りた本を持って喫茶店にいった。ウェイトレスが「ホットコーヒーですね?」と形ばかりの確認をとって、キッチンに入っていった。僕はいつも座る座席に腰を下ろし、テーブルの上に本を置くとその表紙をじっと見つめた。薄汚れた緑色の三角形と、さらに薄汚れた黄色の三角形が組み合わさったずっと見ていても理解できなさそうな表紙。内容となんのつながりもないのだろうな、と思う。そしてどうしてこんな薄汚れた色で三角形を作ってみようと思ったのいだろう、と疑問に思った。
 ドアベルがカラン、と鳴る。僕が反射的に顔をあげると、紗矢子だった。少し眠そうな顔を左右に降ると、真っ直ぐにいつもの座席に向かう。ウェイトレスは灰皿と水をもってきて、アイスコーヒーのオーダーを受ける。僕は表紙と彼女の横顔を見比べて、思い切って立ち上がった。それから足音を忍ばせるようにして紗矢子の座席の近くへいく。
「君、いつもここにいるね」
 思い切ったことをしたものだ。僕は内気な方で、知らない人に自分から話しかけることなどほとんどない。いや、ない。ただ、その時は、どうしようもなく紗矢子に声をかけたかったのだ。その衝動に突き動かされて、僕は声を発した。
 彼女は物憂げに顔を上げ、僕の顔を見つめた。
「あなたもね」
 想像していたよりずいぶん低い声だった。煙草でやられたのではない。どこか透き通った部分もある声音だった。
 僕は図々しくも彼女の正面の座席に座って、ひとつ咳払いをした。彼女はそわそわと腕を撫でる僕をあの鋭い目で見つめながら、ふっと煙草の煙をはいた。
「何か用?」
 彼女の挑みかかるような問いかけに、僕は返す言葉がなかった。馬鹿なことをしてしまった。ただ眺めているだけでよかったのに。時すでに遅し。彼女はしっかりと僕の顔を覚えただろうし。僕は彼女の席の正面に座ってしまった。自分でも何故そうしたのかわからない。ラブホテルと、ブラジャーと、彼女の想像の中の小さな乳房が頭の中でぐるぐると回る。
 僕が必死に言葉を探している間に彼女は煙草を一本吸い終わり、新しい煙草を取り出すべく箱を探った。しかし箱は空で、煙草は一本も残っていなかった。
「あなた、小銭持ってる?」
 彼女はそう言って、僕が差し出した小銭をより分け摘むと、カウンターまで歩いていった。それからウェイトレスに何か話しかけ、ウェイトレスは小銭と引き換えに煙草の箱を彼女に渡した。彼女は座席に戻ってくると当然のように箱を開け新しい煙草を取り出し、ライターで火をつけた。別段うまそう、ということもなく、煙草をふうっと吐き出す。
 僕達の沈黙は数分続いた。彼女はしゃべろうとしないし、僕も何を話したらいいかわからなかった。やがて喫茶店のドアがカランと音をたてて開いて、軽く風が吹き込んできた。足音が聞こえて振り返る間もなく、彼女の隣に大学生らしき若い男が立っていた。ちょっと細めた目で僕を見ている。
「先客?」
「違う」
「知ってる人?」
「知らない」
 彼女はそう言って、ふっと煙草の煙をはいた。大学生らしき若い男は気まずそうにする僕と平然としている彼女を見比べて、「いこうよ」と言った。彼女は少し面倒臭そうに灰皿で煙草をねじけし、立ち上がった。僕の小銭で買った煙草の箱を握りしめる。
 僕は顔を上げることもできず、二人が喫茶店を出て行くのをドアベルの音で確認した。彼女がいないテーブルに、彼女が吸っていた煙草の匂いが残っていた。また、ラブホテルにいくのだろうか。あのじめじめとして野良猫のいる道を通って、ラブホテルへ入っていくのだろうか。僕は何をしているのだろうか、と考えて、自分が座っていた席を見やった。僕がおいた本が小さなテーブルにぽつんと残されている。これが彼女から見た僕のいる景色なのか、となんとなく思った。実際は彼女は僕を見ること無く、どこか空中に目線を投げているのだけれど。
 僕は次の日部屋に引きこもって、本を読んだ。喫茶店にはいかなかった。小銭を入れたマグカップがぽつりとテーブルの上に乗っている。僕はそれをたまに眺めながら本を読んだ。本の内容は人の死について書かれた小説だ。登場人物の夫が死に、その夫のことを延々と考えている遺された妻のひとり語りですすんでいく。この作者の小説ではよく人が死ぬ。死ぬ、というより、死んでいる。それから物語がはじまる。途中で突然、作者の気まぐれのように人が死ぬこともある。そこには理不尽さはなく、ごくごく自然なことのように思えるのが不思議だった。人は死ぬものだ。思いがけない理由と方法で。だけどそれは謎を残しつつも不自然なことではない。作者はそう言いたいような気がする。そんな本を三冊読んで、その日は眠った。
 翌日マグカップの中の小銭をいくつかつまんでポケットに入れると、読み終わった本を持って図書館へ向かった。読んだ本を返却ボックスに入れると、今読んでいる作者の未読の本を二冊、本棚から引き出して手続きを済ませた。それから喫茶店へ直行した。くすんだピンク色のドアを前にすると、なんとなく気まずい気分がした。彼女がいたらどうしよう。でもいないと虚しい気持ちになる。躊躇して、僕はドアを開けた。カラン、と金属の音がする。ふっと彼女が吸う煙草の香りがした。見ると、彼女はいつもの座席に座って、煙草を吸っていた。あんなに煙草を吸っていたら体に悪いんじゃないか、と今更ながら思った。だけど、副流煙を吸っている僕だってそう変わらないじゃないか。つまらないことを考えながら、自分のお気に入りの席につく。日焼けしたブラインドの隙間から道路が見え、彼女の横顔が見える席に。彼女はアイスコーヒーに見向きもせず、空中をじっと睨んでいる。そこに何かがあるのだろうかと僕も視線をむけて見るが、何も見えなかった。その奥にマスターの趣味らしいどこから買ってきたのかわからない茶色く光った熊の彫刻が置いてあった。鮭は咥えていない。太い四本足をしていて、体と比べて小さな頭部がアンバランスだった。茶色くなったのは、喫茶店に立ち込める煙草の脂がついたせいだろうか。
 僕はホットコーヒーの生臭さをこらえながら、そっとすすった。喉を熱いコーヒーが落ちていくのを感じる。こみ上げてくるものをこらえて、ぐっと歯を食いしばった。彼女のアイスコーヒーの氷が溶けて、小さく透き通った音をたてた。一瞬、時が止まったような感覚に陥った。時が止まって、僕は一時自由になって、ぐるりと周囲を廻る。彼女の容姿を360度眺めることができる。すっと通った鼻、やや横に広がった唇、そして切れ長の鋭い目。白く浮かび上がったなめらかな項もじっくりと眺めることができる。そして煙草の香りが鼻をついて、時は流れ始めた。彼女は何事も無かったかのように煙草を吸うし、僕も生臭いコーヒーを啜る。コーヒーと煙草の香りが混ざり合って、なんともいえない不快な香りに感じた。今まで気付かなかった香りだ。あたりまえだと思っていたものが、どんどん崩れていく。僕は本に目を落とした。朱色の面に囲まれて、無表情の太った中年の女がこちらをじっと見ている。西洋画のような表紙だ。同じ作者だというのに、この前の本の表紙とはずいぶん違う。表紙の絵もいつから変わったのだろうか?
 本の表紙に影が落ちて、僕は顔を上げた。彼女の射るような目と僕の目が合う。彼女は右手の人差指と中指の間に火を着けたばかりらしいまだ長い煙草を挟んで、立っていた。彼女は黙って僕の全身をゆっくりと眺めて、唇を寄せるようにして煙草を吸った。そして窓に向かって煙を吹き出す。ガラスに当たって滞留した煙はやがて広がって、僕の顔を包み込んだ。ああ、これが彼女の香りなんだ、と思った。懐かしささえ覚える煙草の香り。
 彼女は面白くなさそうに顎をひくと、くるりと踵を返して自分の席に戻った。何だったのだろうか。手のひらにじっとりと汗をかいていた。僕はどうしたら正解だったのだろうか? 僕が呆然としている間に、喫茶店のドアベルがカランと音を立てる。大学生らしい若い男が入ってくる。見たことのない顔だ。席に案内しようとするウェイトレスを制して、喫茶店をぐるりと見回して真っ直ぐに彼女の席へ歩いて行く。腰に右手をあてて、彼女と何か話す。ああ、まただ。僕は思う。彼女はやはり少し面倒臭そうな顔をして、それでも男と一緒に出て行った。アイスコーヒーの代金は男が支払っていた。僕はブラインドの隙間から遠ざかっていく二人の背中を見送った。僕は主人に置いてけぼりにされた犬のように彼女の背中をずっと見つめていた。
 僕は、彼女の不在を噛み締めながら昔と変わらないホットコーヒーをすすった。ウェイトレスは別の中年の女性に変わっていた。僕は数年前に読んだ新聞を思い出した。丸く切り抜かれた彼女の顔写真と、名前と年齢。未成年だったということを知って僕は驚いた。彼女は確かに幼い顔をしていたが、雰囲気も立ち振舞も大人びていて物憂げな気配さえ漂わせていた。堂々と煙草を吸い、毎回違う男とラブホテルにいく彼女。誰が未成年だと思うだろうか? 少なくとも僕はそう思わなかった。彼女が今ここにいたら、どういう顔をしているだろうか。変わらぬ鋭い目で空中を見つめて、煙草の煙を漂わせているだろうか。山口紗矢子に思いを馳せながら、僕はブラインドから道路を眺めた。

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