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猫とローストビーフ

 秋になり、夜が肌寒くなってきた頃だった。
 ちょうどローストビーフの仕込みをしている時に、猫が訪れた。
 キッチンにある窓から、部屋の中を覗き込んでいる。
 何をしているのだろうと見ていると、何をするでもなく座っている。少しだけ眠そうだ。
 鉄のフライパンに牛脂を溶かして、室温に戻して、塩と黒胡椒をふった牛もも肉の表面を一分ずつ丁寧に焼いていた。その匂いにつられてやってきたのだろうか。
 不思議に思いながら、仕込みを続ける。肉の表面をまんべんなく焼いたら、二重にアルミホイルに包んで、さらに保温するためにタオルで二重にまいて、一時間ほど寝かせる
 猫はまだそこにいる。
 窓越しに指で鼻先を突いてみるが、猫は無関心だ。
 猫は気まぐれなものだし、興味がなくなったら他の場所にいってしまうだろう。そう考えて気にしないことにした。
 肉が仕上がるまで、読みかけの小説を読む。調理の合間にゆっくりと過ごすのは好きだ。こういう“待ち”の時間は特にそうだ。パンの発酵を待つ時間も好ましい。とにかく、何かが仕上がる時間が僕は好きだった。
 ゆっくりと時間が流れる中、鍋の中で肉は変化していく。
 僕は小説を読みながらそれを待つ。
 静かな時間が過ぎる。
 タオルの中で、ゆるやかな熱が肉を変化させる。
 猫はまだ窓際に座っている。さっきよりずっとくつろいでいるように見える。
 一体何をしているのだろう。
 今更ながら考えてしまう。
 何も考えていないのかもしれない。
 何をするでもなく、時間をつぶしているのかもしれない。
 僕が料理中に小説を読むように、猫も散歩中に目にとまった窓を覗き込んでいるだけなのかもしれない。
 ふいに気まぐれにいなくなってしまうだろう。
 そろそろいいだろう。タオルとアルミホイルを解いて、肉を取り出す。肉汁とわけて皿において、自然に冷めるのを待つ。
 フライパンに赤ワインとバター、少量の醤油と、取り分けておいた肉汁を加えて三分の二の量になるまで煮詰める。
 その煮汁が落ち着くまで、また待つ。
 その間にパンを仕込むなりしてもよかったが、前日に焼いた分が残っていたのでそれを使うことにする。パンナイフで少し硬くなったパンを切って、オーブンで炙る。
 キッチンに立っていると足が痛む。昨日歩きすぎたせいだ。足の指にできたまめをつぶして水を抜いた。それが、今になって痛んだ。
 椅子に座って、足を休める。もう少し、待たないと。
 足が痛む。
 猫が覗き込んでいる。
 肉は冷えていく。
 パンが香ばしく焼き上がっている。
 時間がゆっくりと過ぎていく。
 肉にそっと触れて温度を確かめると、まな板に肉をのせ、よく磨いだ包丁で薄く切る。
 内側にある薔薇色のきれいな肉が見える。とても柔らかい。
 良い仕上がりだ。一切れを口の中に入れる。まだほのかに温かい。下味もよくついている。
 猫がぴくりと顔を上げた。ペロリと舌なめずりをする。
 逃げるだろうか。
 そう思いながらあ、窓をそっと開ける。猫は逃げない。
 それどころか、にょろりとキッチンへ入ってきた。
 窓からひょいとテーブルに飛び降り、「にゃあ」と一言鳴く。
 仕方がないので、塩胡椒がついている表面を切り取った肉を一切れ、鼻先におく。猫は慎重に匂いを嗅いでから、吟味するようにぺろりと舐めた。それからクチャクチャと音をたてて食べ始める。
 どうやら気に入ったらしい。すべて食べると、催促するように、舌なめずりをしながら僕を見上げてくる。
 また肉を切って、猫の前におく。猫は食べる。
 よく食べるな。
 そう思いながら、残った外側の部分の肉をパンと一緒に囓る。そうだと思ってワインをあけて、一口飲んだ。美味い。
 次に煮汁で作ったソースをかけて、薄切りを頬張る。肉の甘い旨味が感じられる。
 肉の味に飽きてきたら、冷蔵庫からブルサンのガーリック・ハーブを取り出して、パンにのせて、囓る。ふわりと広がるにんにくの香りが、ワインにもよく合う。
「おまえにはダメだよ」
 ブルサンを舐めようとする猫の顔を掌で覆い、ブルサンから遠ざける。かわりにパンをちぎって、鼻先におく。猫は二度パンの欠片を舐めて、パクリと食べた。
 猫は首輪をつけていない。だが、このあたりで野良猫は珍しい。どこからか脱走した家猫だろう。人を怖がらない様子からもそれは想像できた。
 キジ猫だ。淡い金色の毛並みが美しい。喉をくすぐってやるとゴロゴロと鳴らした。
 猫を飼うのもいいな。こうして手の中に猫を収めると、そんなことを考えてしまう。
「さあ、もういく時間だよ」
 猫を持ち上げて、窓のそばへおく。招いておいて追い出すのも何だが、いつかれても困るのでそろそろ引き取ってもらうことにする。
 猫はしばらく舌なめずりをして僕をじっと見ると、ふらりと窓から出て行った。
 夜の静けさの中に気配が消えていく。
 ほっとして窓を閉めると、部屋の中にも静けさが下りた。
 猫がいる時間もいいものだ。ワインをなめ直して、改めてそう思う。
 ローストビーフをつまんで、ワインを飲む。
 ひととおりの時間を堪能すると、ゆっくりと時間をかけて洗い物を片付ける。それほど量はないので、すぐに終わってしまう。明日のための準備を始める。
 研いだ米をタイマーをつけて炊飯器にセットすると、歯を磨く。明日の朝はローストビーフ丼にしよう。わさびをきかせて、細切りの海苔と共に薄切りにしたローストビーフを炊きたてのご飯にたっぷりとのせる。
 余ったローストビーフは冷凍してとっておいてもいい。サラダにのせたり、サンドイッチの具にしたり、寿司のトッピングにしたり、色々とやりようはある。冷凍してとっておくほど残らないかもしれない。
 まあいい、なるようになるさ。
 そう思いながら、ベッドに潜り込む。
 舌の奥に、ワインの香りが残っていた。
 軽く酔いが回って、気怠くなる。いい心地だ。布団も昼間に干していたから、いい匂いがして温かい。
 キジ猫、また遊びにくるだろうか。
 そんなことを考えながら枕の匂いをかぐ。
 このまま眠りについても、夢はみない。
 僕はみたことはない。
 あるいは覚えていない。
 それでもいい。
 僕は眠りにつく。
 キジ猫のことを考えながら。
 
 
  ――了――
 
 
 
 
 

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