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the (River) Styx

 起きるのが億劫だった。やることはたくさんあるのに、何も思い出せない。ただぐったりとベッドに横たわって、目を開けることもできない。
 今日は何日だろう。何曜日だろう。何時だろう。どうでもいい、もう少し眠りたい。
「起きろ」
 男の声がする。僕は目を腕で覆って、その指示を無視した。そうするしかなかった。僕に起き上がる力などないのだから。
「起きろ」
 また男の声が指図する。僕は無視を決め込む。それが僕のスタイルだ。そもそもどうして一人暮らしの僕の部屋に男がいるんだ。男の声は低くてドスがきいている。どこから入ってきたのだろうか。窓かドアの鍵を閉め忘れたのか。
 男は手を出してくることはなかった。威圧的な口調からすれば僕の上から布団を剥ぎとってでも立ち上がらせそうな気配があるが、男はそうしない。ただ、起きろ、と言う。
 もう放っておいてくれ。僕は心の中で思う。体はだるいし、もう少ししたらいい夢がみれそうなんだ。それなのに起きろとは残酷だ。残忍とまではいかないが、十分に僕の権利を踏みにじっている。男に僕を起こす権利はない。
やがて喉に痛みが走った。風邪でもひいただろうか。しかしそんな痛みではない。何か無理矢理口に異物を突っ込まれた感じだ。えずいてよろよろと上体を起こそうとする。しかし僕の体はベッドにぐったりと横たわるだけで、このままでは嘔吐してしまいそうだった。
「起きろ」
 男の声がもう一度言う。
 胸が圧迫されて、僕は咳き込んだ。ひどい痛みだ。肋骨でも折れたかのような激しい痛み。僕の体に何が起きているのだろうか。
 それでも目を開けることもできずに、僕はベッドに横になっていた。毛布をかけているというのに寒い。手足がかじかんでくる。
「起きろ!」
 男の声が高く強くなった。なにか切羽詰まった感じだ。彼が何をそんなに焦らせるのだろうか。僕がベッドから起き上がらないから? たったそれだけであんな声を荒らげることもないだろう。僕は僕で、ただ眠っていたいのだ。そしていい夢を見たいのだ。だけど、いつも悪夢しかみることができない。何かを追いかけていたり、仕事の締め切りに追われていたり、社内の気になる女性にふられるような夢をみる。安らかな夢は僕の悲願といってもいい。そして、今ならいい夢がみれそうなのだ。体がだるさから軽いものになり、楽になった。しかしやはり突然胸に痛みが走って、目を覚ます。胸のかわりに、脚がひどく痛い。だんだんと意識が覚醒してくる。見慣れた僕のワンルーム。美術館で買ったポスターが安っぽく張られた壁。これといってこだわりのないインテリア。機能性を重視した。僕はものにこだわらない性格だ。不便がない程度に機能を果たしてくれるならなんでもいい。
 そのワンルームが、白かった。白い天井、白い壁、白い人影…。
 僕は混乱した。ここは僕の部屋ではない。聞きなれない電子音…、バタバタとした足音、冷たい感触。
「起きろ!」
 男がもう一度叫ぶ。さっきよりずっと強く、激しく、情熱を込めて。
 脚の痛みがひどい。喉には圧迫感が残っている。僕は混乱した。何が起きているのだろうか。僕の体、僕のワンルーム、僕の、僕の…。
「先生、意識戻りました!」
 甲高い女の声がした。僕はようやく目を開けて、目の前にあるものを眺めた。ぼんやりとしか見えないが、消毒液の匂いがつんと鼻をつく。
「よし、よし、起きたな、いいぞ」
 男の声が励ますように続ける。少し安心したような声音だった。あんなに激しかったのに、今は慈愛さえ感じられる、優しい声音だ。ほっとしたような、ハードな仕事をやり終えた男の達成感のようなものが感じられた。
 そこはICUだった。僕は人工呼吸器がつけられていていた。
「ゆっくり息をしてくださいねー」
 看護師が落ち着いた声で言う。ピッ。ピッ、ピッという単調な音が流れている。それが自分の鼓動だと気づいたのはずいぶん後のことだった。
 体中に用途の分からないあらゆるものが貼り付けられ、刺されて、僕はベッドに横になっていた。
「覚えてらっしゃいます、事故のこと?」
 青い手術着を着た男が僕を覗きこんで尋ねる。僕は目をしばたたかせ、少し頭を動かした。鈍い痛みが走って、顔をしかめる。
「まだ動かないで。生きているのが奇跡だったんだから」
 起きろ! あの激しい声はこの男のものだったのだ。 
 ああ、バイクで事故にあったんだ。
「事故ですね」
 僕はひどいかすれ声で答えた。
「ええ。それも、とてもひどい事故です」
 医師は落ち着いた声で言った。今まで死にそうだった患者に対してとれるとは思えないほど冷静な態度だった。しょうがない、それが医師というものだ。怪我人を前に医師がパニックになったら、それは医師とはいえない。
 高速を走っていて、トラックが抜き去っていく風にあおられバランスを崩して、ガードレールを飛び越えたのだ。僕は三メートルほど下に落ちただろうか。その時の様子は妙にゆっくりとはっきりとおぼえていた。走馬灯のようなものもあったかもしれない。ただそれは一瞬で、僕は愛車ごと三メートル下に叩きつけられた。速度もかなり出していた。フルフェイスのヘルメットをかぶっていたのが幸いだったのか、意識ははっきりしている。
「つらいお知らせですが、左足の膝から下を切断することになりました」
 医師は相変わらず落ちついた声で、ゆっくりと僕に告げる。僕にはまだ左足があるような気がしている。足の指だって動かせるはずだ。ただそうするとひどい痛みが走り、僕はうめき声を漏らした。
「すぐにリハビリを始めましょう。少し痛むでしょうが、歩けなくなりますからね。義足も用意してもらいますよ」
 医師の声を聞きながら、あの胸の痛みはなんだったのだろうか、と考える。心臓マッサージだったのだろうか。AEDだろうか。いろいろな管に繋がれたまま、ぼんやりと考える。
「鎮痛剤と鎮静剤を投与しています。今日は、ゆっくり休んで、眠ってください。夜には導眠剤を処方しましょう」
 医師はそれだけいって、ほっとしたように少し笑うと看護師と変わった。ICUから出て行く彼の背中を見送りながら、僕は看護師の白い制服も見た。自動ドアから、入れ替わるように部屋に入ってくる。ああ、ここは病院なんだ、と改めて思わされた。僕は生死の境をさまよったのだ。
 僕以上にぺしゃんこになってしまっただろう僕の愛車。死にかけたというのに、僕はそんなことを考えていた。ICUのガラスのドアの向こうに、両親の顔が見えた。どちらも不安そうな顔をして、母親は泣き腫らした目をしていた。華奢な手にハンカチをぎゅっと握りしめている。
 ああ、親不孝なことをしてしまったな。ぼんやりとした意識の中で考える。そんなに嘆かないで、僕の不注意なんだから。それに、左足は失ってしまったけど、僕は生きている。起きろ! その男の声によって、生の世界に引き戻された。
 改めて事故の瞬間を思い出す。よく体験談できく走馬灯、あれはよぎっただろうか。繰り返し考えてしまう。なかったような気がする。風を受けて体が飛んだと思ったら、地面に叩きつけられた。意識はその途中で途切れていたように思える。奇妙な夢をみて目を覚ましたら、病院にいた。しかも左足は膝の下からない。
 まあいいさ、命は助かったんだし、バイクにはもう乗らないだろう。今のところそう思う。将来はどうなるかわからないけれど、左足が義足ではバイクは無理だな、と改めて考える。
 義足の人生、それもいいじゃないか。何かスペシャルな贈り物をされたかのように僕の気持ちは妙に沸き立っていた。普通なら嘆くだろう。僕の左足はどこにいったんだ、って。バイク事故を起こした不運を呪うだろう。なんでバイクになんか乗ったんだ、と後悔するかもしれない。
 でも不思議なことに、僕にはそんな気持ちは微塵もなかった。ただ義足が楽しみだった。新しい人生だ。義足になったからってできないことがほんのすこし減っただけのことだ。来るべき厳しいリハビリに向けて気持ちを強く持つ。僕はイカした義足の男になるんだ。嘆いたってどうにもならない。素晴らしきかな、左足のない人生。僕の人生は一変した。少なくともポジティブにとらえている。そんな自分に自分で驚いている。別に部位欠損の希望など持っていない。ただ、左足がない自分を受け入れただけだ。百パーセント、完全に。こういうことは早いに越したことはない。ないものをぐずぐずと考えていてもしょうがないのだ。
 白い天井を見上げて思う。両親には心配をかけたな、とか、そういうことだ。面会の許可が下りれば会話をすることもできるだろう。その時になんて言おう。ごめん、心配かけて、とか、ありきたりな感じだろうか。普段は厳しい父親があんな心細そうな顔をしているのを見たのも初めてだった。ああ、愛されているんだな、と感じた。母親はげっそりとやつれた顔をしていた。泣き腫らしたまぶたを思い出す。待合室では気が気でなかっただろう。まずは謝ろう。そして感謝しよう。
 僕は決めた。そしてゆるやかな眠りに導かれていった。いろいろあって疲れた。今は静かに休みたい。
いい夢がみれそうだ。今度こそ。

 ――了――


 


 


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