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人魚歳時記 皐月 前半(5月1日~15日))

1日
鉄柵に絡んだクレマチス。家の中から聞こえるピアノ――通りかかった家の前で、既視感から足を止める。

世界が広く、奇跡を信じていた私は、ランドセルを背負い、友達と下校しながら、花盗み人になって遊んだ――

雨が落ちてきて我に返る。
今年の皐月は冷たい雨から始まった。


2日
近所の廃屋。
家屋は日ごとに朽ちていくが、庭木は常に緑濃く、花も美しい。
打ち捨てられた家に、今年は変化があった。
裏庭に植えられた藤が、手入れもないまま元気よく、家の壁を頼りにとうとう屋根まで蔓を伸ばした。
青紫の花を被った廃屋は、今だけお城のよう。

クレマチス花後の姿

3日
牛舎を見つけたのは、麦の畑や水を流した田んぼの上で、ヒバリが鳴いている頃――

昔の手帳の、こんな走り書きが目に留まる。
日付は五月。
あの頃は犬の散歩で遠出をしていた。
牛舎には何年も足を向けていない。
賢そうな黒い牛を見に行くのに、時間を作ろうと思った。


4日
窓を開くと、あちらにも緑、こちらにも緑が膨らんで、ムクドリや雀が虫を追い飛び回る。
鳩が椿の中に巣を作る。
縦横に飛び交うツバメを追う窓際の猫は、右へ左へ頭を忙しく動かしている。
睡蓮鉢でメダカが跳ねた。
そんな生命力の圧が、少々息苦しい部屋の中の私。


早苗が並んで

5日
ここのお爺さん見ないなぁと思っていると、玄関先にお婆さん用の車椅子が置かれ、それがいつしか放置されて錆びだらけに。空き家になっても、季節になれば赤い芍薬が庭に咲く。息を呑む美しさ。逝った老夫婦の秘蔵っ子だなと、背伸びして、塀の向こうを覗いて今年も思う。


6日
冬でも水浴びするよと教えられて、冬からバードバスを設置していたが、まったく使ってもらえず、鵯が落した金柑が朝には氷漬けになっていたりした。

すっかりつまらなくて放置していたけれど、気を取り直して、昨日新しい水を入れたら、今日、雀が水しぶきを飛ばしてくれた。

追記
サザエさんで、ワカメが縁側に座布団を敷いて座り、「私、お風呂屋さん」と、そこを番台に見立てる。サザエさんが「お客さんは?」と訊くと、ワカメは笑って、庭の手水鉢かつくばいで水浴びする雀を指さす4コマ漫画を、急に思い出したので追記。

トラクターの痕跡

7日
「これで終わり」
採れたての青菜をいただき、むき出しのまま抱えて歩く。茎と茎とが擦れてキュキュッと音をたてる。
畑の隅に、黄色い花を咲かせる余った菜っ葉が、甘い匂いを放ってうっちゃらかされていた。今日の雨で溶けていくのだろう。
抱えるこれは、お腹の中に消える。

8日
風に乱れた髪に手を当てようとして、薬指の付け根に、いつの間にか羽のある虫が止まっているのに気づく。
薄緑色の羽は透き通り、体は鮮やかな黄色。近くの葉に移そうとするなり飛んでいった。
虫のいなくなった手を見て、あっ、甘皮のお手入れをしなきゃとハッとした。

青空電線鳩


9日
朝、寒くてグズグズしてしまう。着替えながら
「アァ早く温かいお風呂に入って寝たい」
と、一日を始める前から思ってしまった。
ストーブをつけたくて、給油しに庭に出ると、メダカの睡蓮鉢の中へ冷たい雨が降り注ぎ、水が満杯。
カルミラの花から絶え間なく雫が滴っている。


10日
草むしりの手を休めて立ち上がり、ぼんやりしていると、いい風が吹いてくる。
茂った木々の枝が揺れるのをじっと見ていると、子供の頃から探していたものは見つかったと感じた。

5月の庭仕事は、いつもこの気持ちを与えてくれる。

11日
窓の外が明るいので起きてしまった。時計を見ると四時半。
夜明けが早くなった。
とはいえ陽はまだ充分に差していない。
おぼろげな薄明りの中でお化粧すると、眉毛が蝙蝠の片翼みたいになってしまった。

#2
朝早くに犬の散歩。
早苗の並ぶ水田に一羽の白サギ。
水鏡に姿を映して優雅に水田の中から何かを啄んでいるが、私たちの気配に、ふと動きを止める。
その姿は若緑の中、

「の
 し」

と、白い変体仮名文字が浮かんでいるように見えた。

白鷺


12日
伸びていた蔓を手折り、噴水みたいに反った黄色の花を顔に持ってくる。ハニーサックルは天然の香水。うっとり細めた目に映るのは、絵の具を流したような早朝の空――

犬の散歩の途上で。至福はいつも一瞬だけ、そして必ず、だしぬけに訪れる。


13日
雨は降り止まず、庭の緑はブロンズ色に沈み込み、咲いたばかりの薔薇は淋しそうにうなだれている。
木陰で休む雀が飛び立つと、揺らした枝から雫がこぼれ落ちる。

朝、大鍋にカレーこしらえたので、夕飯を作りもせずに、うっとりと雨を見ている午後。

14日
快晴の今日、犬と歩く。
木の多いところを歩くと、枝葉が重なり天井を作っていた。
高台に来て、木々の間から遠くの空が見えた。あのあたりに夏があると思った。子供の時、夏の高原で大人になった時を想像した。
あの時の自分に、今の私を見せに行きたくなった。

緑の天井

15日
早くも午後。窓を開くと、ひび割れたアスファルトの隙間から緑が眩しく伸びている。
乾いた道をチョンチョン小走りに横切る雀一羽。薔薇鉢の縁に止まったり、メダカの水を飲んだり……。

朝から一つ処に集中させていた神経をほぐしたら、想像の中で雀に乗って遊んでみたり

水田の準備
ひび割れた隙間からも生えてくる

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