金子つとむ
うたのジャンルはよく分かりませんが、短歌というより狂歌に近いかもしれません。日々の思いを綴っています。
週に一回くらいのペースで、自作の詩を発表していきたいと思います。俳の森をさ迷っているうちに、いつしか、詩の森に紛れ込んでしまいました。
30年程句作を続けていますが、ここ十年位の間に俳句について考えたことを一話1000字ほどでエッセイ風にまとめてあります。俳論風エッセー『俳の森』が本になりました。(東京図書出版、定価2300円+税、568頁)
良くないと知っているから隠すのさ良くないことを続けるために
僕らと僕と ことわざには 十人十色というのがあって 十人寄れば十色の国などともいう もともと 寛容だった日本人はどこへ 行ってしまったのだろう アメリカ人の目からみれば 今の日本人は十人一色で 見分けがつかないという 似たようなものを持ち 似たような家に住み 似たようなものを食べている みんな違ってみんないい と詩人の金子みすゞさんはいった 人の特性は 違う・変わる・関わることだと 教育者の太田尭さんが教えてくれた しかし僕らはかなり画一的だ ワクチンを打てと
はらはらと不揃いのまま駆け下りて忽ち消ゆる春の淡雪
「させていただく」考 させていただく」という言葉が 使われ出したのはいつ頃からだろう ここ10年ほどのことではないだろうか 10年前といえば 特定秘密保護法が作られ(2013年) 平和安全法制(2015年)共謀罪法(2017年) と矢継ぎ早に 戦争遂行法が成立した時期だ そのもう少し前から 僕自身は世の中のあからさまな悪意を 感じ取っていた それは具体的には電話詐欺や詐欺メールの横行 震災被災者への行政の酷い仕打ちといったことだ 大いな
創造生活毎日笑顔それが私の定年後(都々逸)
体の声 体の奥の遠いところから その声は聞こえてきます 弛緩した筋肉の かすかなふるえのような 声にならない声――― 僕の体の声です 20世紀人々は忙しくなりました 21世紀人々はもっと忙しくなりました 体は脳にコントロールされ 眠ることさえままならなくなりました 体の声を聞く人は めっきり減っていきました もはや何のために生きているのか だれも分かりません 欲望にまかせて ただ走り続けているのです その先には空しいだけのゴールテープ <死>が待っています 眠
こころの扉堅く閉ざして言っても無駄と諦めて(都々逸)
なぜのない国 その国の大人たちに なぜは必要なかったので 子どもたちも なぜをもつことを 禁じられていました その国の教育の目的は 従順な国民をつくること なぜをもつ者は 生意気だ非国民だといわれ いじめられるのです その国を支配していたのは 権威主義と隠れた恐怖でした その証拠にその国は 終に死刑を手放すことは なかったのです 科学のなぜは許されるのに 社会の仕組みとなると 先生は途端に口を噤んでしまいます なぜテストで順位をつけるのか なぜ学校に規則がある
君が変われば世界が変わる君の世界があるだけさ(都々逸)
もし僕が悪い統治者なら もし僕が悪い統治者なら 大人も子供も老人も 年中忙しくさせておくだろう 忙しければだれも 自分の事で手一杯で 政治のことには 見向きもしなくなるだろう もし僕が悪い統治者なら 子供には受験をあてがい 政治に興味すら持たせないだろう 非正規を全職種に拡大し 低賃金の職場を増やすだろう そうすれば貧乏暇なし 金の力に容易くひれ伏すだろう もし僕が悪い統治者なら 人生は100年時代だと吹聴し 70歳まで働こ
穏やかな冬の夕べの電線に百の雀の井戸端会議
情報戦 一度気になったことは 何故か後々まで覚えているものだ もう何十年も前に ある自己啓発セミナーで 「社会は平等か」と聞かれたことがある その時は思いつくままに 「ほぼ平等」と答えた しかし今ならその答えはNOだ NOといえるだけの事実を たくさん知ってしまったからだ マスコミを 唯一の情報源とする人ほど その色に染まっていくだろう 何故なら マスコミの所有者たちは 色付けすることで利益を得ているからだ その方法は二つ 知らせてもいいことだけを知らせる そして 同
百年一日ウグイス嬢の連呼連呼の選挙かな(都々逸)
賢い人と愚かな人と 愚かな人は人を信じ 賢い人は信じない 賢い人は思うだろう 信じるなんて愚の骨頂さ 愚かな人は正直に 人の言葉を受け止める 賢い人は利口になって 言葉で人を騙すだろう 愚かな人は愚かなままで 騙されているとは露しらず 賢い人は思うだろう 騙される奴が断然悪いのさ 人を疑う賢い人と 人を信じる愚かな人と 同じ時代に生まれ合わせて どっちが幸せなんだろう 奇跡の星に暮らしていても きっとどっちも不幸せ 2024.5.9
スマホ見てるかスマホ見てるか座席に凭れ寝ているか(都々逸)
生きもの時間 猫派や犬派 という言葉があるほど 世に猫好きや犬好きは多いが 昆虫好きで殊に 蝶には目がないという人もいるだろう そうかと思うと 僕のような鳥好きも一定数はいて バランスがとれている 言葉の分からない動物にも 僕らがシンパシーを抱く理由は どこにあるのだろう 進化の途中で枝分かれした僕らは 遡れば何かしら共通の部分に 行き着くのではあるまいか 鳥や昆虫 動物のはく製もあるけれど 僕らは死んだ動物が好きなわけじゃない 生きているものが好きなのだ たとえ言葉