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福島第一原発事故被害地からの報告

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福島第一原発事故発生の2011年3月から被害地現地に足を運んで取材と記録を続けています。その記事を集めました。もっとも古いのは2015年までさかのぼれます。 現地取材に通う交通… もっと読む
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#東日本大震災

フクシマからの報告 2023年春    原発事故12年目の被害地       消えゆく…

福島第一原発事故が始まって12年目の2023年3月11日の前後数日、私は原発事故被害地を訪ねて回…

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菅直人・元総理がふりかえる福島第一原発事故最初の25時間(上) 地震後2時間半で…

 拙著「福島第一原発 メルトダウンまでの50年」(明石書店)を取材する過程で「会って話を…

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菅直人・元総理がふりかえる福島第一原発事故最初の25時間(下) 自分が決裁しなけれ…

3・11当時の総理大臣だった菅直人・衆議院議員へのインタビューの後半を報告する。  この…

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放射能汚染で分断された街・富岡町からの報告 立入禁止区域内のほうが外より線量が低…

 2017年10月17日から20日まで、福島第一原発事故の被災地である富岡町から浪江町にかけての地…

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津波と放射能汚染で消えた街・JR常磐線・富岡駅前

 2011年の東日本大震災後、フクシマに取材に行くと、よく足を運ぶ場所がある。福島第一原発か…

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フクシマからの報告 2018年晩秋     高濃度の汚染地帯に入る         …

2018年12月、福島県浪江町の山間部、国道114号の沿線約27キロを取材に訪ねた。 ここは、福島…

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フクシマからの報告 2018年晩秋その3  原発内で働いていたからこそ思う      故郷はもう原発内部と同じ         渡辺さん親子の物語(下)

前回の記事に続いて、渡辺さん親子の話を書く。今回は父親の理明(まさあき)さん(48)である。 山形県に避難して間もなく8年。この間に、渡辺さんの健康は悪化した。壮健な少年野球チームの監督だったのに、円形脱毛症になり、大量の下血で救急搬送され、2年前からは人工透析に週3回通う身になった。取材で会うたびに、病気や故障が増えていった。顔色も悪くなった。避難直後の元気な姿を覚えている私には、痛々しい姿に見えた。 それが放射能の影響だとか、そうでないとか、そういう話をするつもりはな

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<フクシマからの報告 2020年春>  津波と原発事故で消えてしまった    JR富岡…

 東日本大震災による津波と原発事故で、消えてしまった街がある。福島県富岡町にあるJR富岡駅…

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フクシマからの報告 2020年秋    商店街・モール・ボウリング場…     町が…

今回は2回に分けて、福島県浪江町の現状を写真を中心に報告したいと思う。 2011年3月11日の福…

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フクシマからの報告 2020年秋    沿線30㌔廃墟が続く 山街道を行く  人口帰還…

前回に続いて、福島県浪江町からの報告を書く。 上巻は同町の平野部・海岸部の市街地の様子を…

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フクシマからの報告 2021年冬      10年前見た行方不明の家族を探すチラシその…

2021年3月で福島第一原発事故の取材を始めて10年が経つ。その10年の間、ずっと気がかりであり…

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フクシマからの報告 2021年春    震災10年目の3月11日 被災現場に行った  津…

 東日本大震災から10年の2021年3月11日、福島県浜通り地方(太平洋沿岸部)のかつての「強制…

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フクシマからの報告 2021年春    茨城県ひたちなか市にホットスポット  眼前は…

 今回は、単純な事実の報告と問題提起をする。 茨城県ひたちなか市のJR常磐線の車両基地のそ…

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フクシマからの報告 2021年春    汚染土の埋立地にされても       家族が幸せに暮らした街を守る     津波で娘・妻・父を亡くした       大熊町・木村紀夫さんの静かな抵抗

 今回の報告は、2021年2月11日付け「フクシマからの報告」で書いた記事 「10年前見た行方不明の家族を探すチラシ そのお父さんにようやく会えた 自宅跡は核のゴミ捨て場に それでもなお娘の体を捜し続ける」の続きである。 (上は木村さんが2011年春当時、避難所や市役所に貼って回ったチラシ。私は南相馬市役所ホールの掲示板で見た)  福島県大熊町、福島第一原発から南に4キロの海岸部に住んでいた木村紀夫さん(55)は、2011年3月11日に起きた津波で次女汐凪ちゃん(7 )、

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