小説 海が見たい

 すべてに疲れて海に行くとわたしとおんなじように疲れて海に来た人たちで海岸が埋め尽くされている。世の中おかしいぜ。

 わたしはぼけっと波の打ち寄せるさまを見たいだけだというのに、波打ち際には疲れた顔の男女男女男男女女人人人人人人人人が死んだ目でずらっとしている。くそぅ。海なんか見たってなんにもいいことはないんだぞ。 

 どっかに人の途切れているところはないかなと海岸沿いを歩いていくけれども波が押し寄せてくるところはもうみんな人がいてちっとも近づけないのだった。なんだなんだ。小田急に乗ってせっかく鎌倉までやってきたというのだぞ。

「あんまりだ!」

 絶叫していると親切な人がやってきてくれて、

「ぼくがここの人たちをみんななぎ倒して、あなたが海を見れるようにすることもできますよ」と言ってくれる。

「あなたは?」

「『暴力の化身』です」と暴力の化身。

「『力』を発揮する場を求めているのです」

「よしきた、頼んだよ」

 すると暴力の化身が暴力を行使して波打ち際にいる人たちをなぎ倒し始めた。

「おりゃああああ」

「うおーやったれ」

 だが波打ち際にいる人たちもただただ波打ち際にいるだけではない。彼らは疲れている。癒やしを求めているのだ。波の押し寄せる音にf分の1ゆらぎを求めてわざわざ鎌倉の海までやって来たのだ。

 海を見たい。仕事を忘れたい。ついでに辞めたい。宝くじに当たりたい。ロト6でもいい。そんな気持ちで電車に乗って来たのだ。簡単なことでは彼らはなぎ倒されなかった。

 暴力の化身は顎の下の汗を拭いながら「しんどいです」と言った。

「ぜんぜんだめじゃん暴力の化身」

「はあはあ。意外とタフですよ彼らは」

「そんなんで暴力の化身を名乗るな」 

 だが暴力の化身は諦めなかった。波打ち際にいる人たちをちょっとずつちょっとずつなぎ倒していって、とうとう海の先っちょが見え始めてきた。
「やったあ。あとちょっとだよ」

「はあはあ。もうだめです」

 突然倒れる暴力の化身。

「ちょっとー、あとわずかというところで」

「あとはあなたの仕事です」と暴力の化身。

「わたしの?」

「海を見に来たんでしょう?」

 思い出した。そうだ。わたしは海を見に来たのだ。すべてに疲れて。海を見たくて。

「でも暴力は犯罪じゃないのかなあ」

「犯罪じゃありませんよ。海を見るためだったら暴力は犯罪ではないのです」

「説得力があるな」

「あなたにこの暴力の腕輪を託します」と暴力の化身。

「その腕輪をはめるとあなたが暴力の化身になり、自由自在に暴力を行使できるのです」

「そんな貴重なものをありがとう」

 そしてわたしは暴力の腕輪をはめ、新たな暴力の化身に成った。

 うおお力がみなぎるぞ。暴力を行使するぞ。暴れまわりたいぞ。

 腹の底からのエネルギーが無尽蔵に湧いてきた。今ならなんでもできそうだし、できるのだ。

 わたしは人々に向かっていった。

「うおりゃー」

 波打ち際に居座る人々をなぎ倒していく。次々。次々に、人をねじり、跳ね飛ばし、海に放り投げ、そうしてとうとう、海が。

「静かだ」

 波の音しか聞こえない。

「そうだ。コーヒー買ってきて、波を見ながら飲むんだった」

 わたしはコンビニに向かった。誰もいない海を見るため防波堤に腰掛けながら、コンビニで買ったコーヒーを開けた。

「ね? なぎ倒してよかったでしょう?」と暴力の化身の幽霊が言った(暴力の化身はわたしに暴力を譲り渡して消滅していたので)。

「うん。そうだね」

 わたしは暴力の腕輪を撫でながら答えた。

 日がゆっくりと落ちる。空の色が時間とともに刻一刻と変わっていく。そんな贅沢な時間。誰もいない海。わたしと。暴力しかいない海。