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自分が嫌いな自分が好きな自分:嘘4割

 みなさんお久しぶりです、または初めまして、〻ゞです。
 最近ぼちぼちと交流が増え、このへんてこりんな名前について説明させていただくことが何回かありました。由来については以前ツイートしたことがあります。この名前にしたのはコロナ禍にてnoteを始めたときで、実を言うとここがオリジンなんですよね。そのくせあんま更新しなくなっちゃったので、つぶやき機能で間を繋いだりしてみるのですが。

 さて半月ぶりにしたためたろうと筆を取りここまで書きましたが、やはりテンション感を忘れているので前回のnoteを読んできます。一旦さらば。

【閑話休題】
↑この使い方は誤用らしい、本来は話を本筋に戻すときに使うとのこと。ソースは記憶。

 はい、ということで読んできました。自分で言うのもアレですがいい文章でした。嘘8割ということで、情報量が多くこってりな嘘とサラッとしたあっさりな嘘があって、メリハリがついていて良かったです。あと、最後の一文がいいですね。程よいフックの嘘になっています。やっぱ自分の書く文章が好きなので、noteを見返してふふっと笑えるのはコスパがいいなあと常々思います。
 しかし初期のnoteはちゃんと落ち込んでいた時期に書いたものなので、分かりやすく荒れ荒んでいます。過去の自分を否定したくないのと自戒を込めて残していますが、あんま読み返したくないですね。皆さんにおかれましてもお気をつけください。一応のため。

 さてオープニングトークをだらだらと引き伸ばしたところで、メインディッシュに入りましょう。今日は最近の僕の気づきについて書こうと思います。そもそも僕のnoteは自分の内面世界について書くことが多いので、興味の無い方はブラウザバックしてどぞ。
 嘘は4割とまあ書きやすい方ですかね。それでは参ります。

①思慮の人間

 僕は“思慮の人間”である。“思慮の人間”とは別に一般的な何がしかではなく僕が勝手に定義したもので、

“思慮”=注意深くものごとを考えること

“思慮の人間”=自分をメタ的に捉えて、深く思考する人間

俺、『思慮の人間総論』、民明書房

を指す。ここで重要なのは、別に俯瞰した正当な評価を自分で下しているとは限らない、という点だ。ひとつ外側の視点から自分を視ているように見えて、その実「自分」という領域を出ていない。どこまでも自己完結で、間違いなく杓子定規である。それを自覚しつつも深く深く自意識を掘り下げてしまうのが“思慮の人間”である。

 これに対し、ちゃんと世俗の判断基準に沿って自分を評価している人間を切り離して考えなくてはいけない。僕はそれを“思考の人間”と名付けた。(“至高の人間”に聞こえるのでカッコいい)
 “思考の人間”も種々の物事を思い考える点では“思慮の人間”と同じであり、ベン図を描いてもおおよそ被っている。

 まあそれはそれとして僕は“思慮の人間”であるので、夜半に自分の人生を深掘りしては枯行燈に入ることがしばしばある。月並みな話だが、これが結構堪えるのだからやってられない。
 さてこの夜を灯す油は何ぞやと言うと、結局のところ自己×(嫌悪+憐憫)である。周囲との格差をこれでもかと挙げ、嫌がる自分をなおのこと針で刺し、がらんどうになった自己愛の抜け殻を軽く叩いて、ぽこぽことバカみたいに音が鳴るのを愉しむのだ。月が沈むまで。
 こう書くと僕は自分自身のことが果てしなく嫌いなように聞こえよう。まあその通り嫌いではあるし、だからこそこんなに思慮を潜らせているのだ。

 しかしこんなメンタリティでは1人で生きてゆけない。さてここで僕はどうしているかと言うと、
「自分を嫌う自分を包含して好きになる」
という、視点をさらに外側に置く選択をした。自分のレイヤー化。思慮の人間だからこそ見える、精神の地層。図示するとこんな感じである。

自分  ̄|
|   |
|嫌い > このプロセスごと一旦愛してみる
↓   |
自分 _|

メモ帳に手書きで図を書こうとしたけど無理やったので妥協

 「自分が嫌い」をそのままに「自分が好き」を達成でき、自己矛盾無く精神の安寧が訪れる。どこまでも自己完結。自産自消。メンタリティのSDGs。陣内智則。
 これは「俺が俺を愛してやらなきゃ誰が俺を愛すのか」という果てしない禅問答の産物であり、「『i』か『iじゃない』かでいうと」という枕詞に囚われていたあの頃に辿り着いた自分なりの答えである。これは自分にとって相当なライフハックであり、実家のfff(フォルテッシッシモ)からは快気祝いに銀座あけぼののおかき詰め合わせを頂いた。(ちなみに#ffffffは何もくれなかった。お前は結局200分の1だよ)

 でもどうしたって真っ直ぐ自分のことを好きにはなれない。もしそうなってしまったら、自分を嫌う自分を貫通してしまうからだ。

 だから、僕は創作をしている。

②創作と愛と小鳥と鈴と、あとカンカラキンに冷えたみかんゼリーと、夜明けのシャワーと、生ひとつで!

 僕は自分の創作が好きである。
 無類の愛を注いでいる。
 側から見て上手いか下手かは関係ない。なによりも俺自身は好いているのだ。その事実さえ確かであればよい。
 僕が行っている創作活動は、一次創作としての短歌と二次創作としてのFA、そして五次創作としてのマヨチュチュに分けられる。しかし、以下で言及する「創作」というワードはどちらかというと一次創作の短歌についてであるため、その点をご留意いただきたい。

 それはさておき、さっきのと創作の関係性についてである。これは言葉を尽くすよりも図示したほうが早いので、悔しいが先に図を出しておく。

流石に美ら海と言うだけあるね。BEAUTIFUL OCEANやで!

 このように、僕の中で創作は「アウトプット=外界へと切り離した自分の一部」であり、それを愛するということは間接的に自分を愛することになる。つまり、「創作という外界を経由することで、自分を直接的ではなく間接的に愛する」ことができるのだ。

 そもそも僕は短歌を「負の体験のデフォルメ」として使用している。短歌は俳句よりも音数に猶予があるため表現を凝りやすいが、まあそれなりにデフォルメや要素の抽出を行わないと三十一文字に収まらない。そのため、対象を適度にこねくり回す必要があり、感情そっちのけで向き合うことができる。そしてできた完成品をスマホのメモ帳に並べ、たまに見返すのだ。
 また面白いのが、どうにかあくせくしてデフォルメをかけたその事象が、見返しただけでありありと目に浮かぶのだ。しかしそれは時間が経ったおかげで角が取れ、まろみを帯びているのでメンタリティには何ら影響しない。負の体験を短歌という小瓶に詰め、感情を揮発させて事象のみを残し、時折蓋を開けて浴びてみる。それが唯一無二の醍醐味だ。

さよならさんかくまたきてもさんかくな僕と君とのショート・ショート

2021.4.27

 この負の体験というのが自分が自分を嫌う構図に符合し、それを創作として取り出すことで好きと言える。まさにで触れた僕の精神構造の体現であり、芯が通っていて気持ちが良い。俺みたいな人間は、せめて芯くらい通ってないと。

③まとめ

 今までつらつらと書いてきたが、これを纏めて言語化できたのは本当にここ1ヶ月くらいの話である。それまで散逸していた体験や思考をかき集め、一度分解し、再構築することで繋がりが見えてくる。全ては僕という一個人で収束するため、変にこじつけるようなことも無い。

 最近ようやく自分というものが固まってきて、こういうものの見方であったりここ数回のnoteの書き方だったりと、地味〜に実感することが多い。しかし柔軟さを失っているかもしれないという恐怖がままあるため、一概に嬉しいということもない。
 まあでもモヤモヤさまぁ〜ずとした自分がだんだん人の形を成し始めたのは賞賛すべきことではないだろうか。トライアンドエライ❗️

近況

 最近はたまにスペースを開き、へたっぴなりに1人で話してみようと四苦八苦しています。話題を決めてないのと日常生活が平坦なのが重なり、早々にネタが尽きて後悔することが多く、その点はマジで改善しなきゃですね。いや、改善します!やはり聴いていただいている立場ですので…。ほんと感謝しかありません…。
 また、この部分を書いているのがちょうどにじそうさく07の直前ということもあり、TLの創作意欲の高まりにあてられています。今までそういったイベントには我関せずでしたが、どうやら興味の種を植え付けられてしまったようです。ま、これをどう育てるかは僕次第なのですが。

 まあとりあえず最近元気に過ごせているのでモーマンタイですね。もうちょい仕事を頑張って、まずは冷蔵庫とですよ。を買いたいと思います。そしたら生活が100%になるので!

 ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。約3800文字ですってよ、奥さん!原稿用紙10枚ですってよ、手前さん!なんだかんだ完成まで1ヶ月くらいかけて書いているので、そりゃ長くなっちまいますね。あと最近やっと気づいたのですが、僕は荒唐無稽でとっ散らかった文章が好きすぎますね。まあ嘘を入れ込むというのもありますが、読んでて体力をこそげ取られていくのが楽しくて仕方ありません。
 兎にも角にも、それでは!

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