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【恋愛小説】通じる (4)


最初、理美が出てきたのが、分からなかった。何故なら僕は、出入り口に背を向けて、長い廊下を歩いていたからだ。
「まささん?」理美が僕を呼ぶ声で、僕は振り向いたんだ。
理美が僕を見つけた。僕は理美に駆け寄った。
「どうだい、ナオちゃんの容態は?」
「うん、点滴で入れてる薬が効いて、熱は下がってきてる。そして、熱の原因が分かったの。」
「ええ、そりゃよかった。で、原因は何だった?」
「私も全く気付いていなかったんだけど、あの子、先天的に鼻の奥に穴が開いてたのよ。そこは薄い皮膜があるだけで、すぐに破れて、黴菌が入りやすいの。今回も、そこから黴菌が入ったみたい。」
「そうか、じゃあ、その穴を塞がないといけないんだな。」
「そう。これからいろいろと手術の準備をして、午前中、早い目に手術するみたい。」
「午前中、早い目か?まあ、よかった。」
「でもねえ、先生から二つのリスクについて話された。」
「リスクが二つもあるのか、で?」
「一つはね、手術は鼻の奥に針を入れてやるんだけど、上手くいかない場合は、最悪、切開する事になるんだって。そしたら、ナオちゃん、顔に傷ができるの。」
「最悪なんだろう?そうならない事を祈ろう。で、後一つは?」
「高熱がずっと続いていたでしょう。それで、脳炎を起こしてるかもしれないの。これも、手術が無事終わってみないと分からないんだけども。」
「そうか、でも、それも祈るしかないな。僕ら二人で、ナオちゃんが無事である事を祈り続けよう。でさあ、理美、お願いがあるんだけども?」
「何?」
「結婚してくれないか、僕と?」
「え?何?何で?ここで?急に?」
「いや、血縁者でないとナオちゃんのそばにも行けない。手術になったら余計だろう?だったら、君さえ良ければ、手術の前に婚姻届けは戸籍謄本とかがいるからすぐには出せないとしても、神社に頼んで、結婚証明書なんかを出してもらって、その写真をメールで飛ばしてもらうとかして、それを病院に見せるんだ。そのために、どうしても今君の同意がいる。結婚して欲しい。いいかい?」
「いいわ。でも、どうするの?」
「僕の従兄が、実家のある仙台で神社の権禰宜をやってるんだ。僕よりも14歳も年上だけどね。弘明って言って、僕は小さい頃からずっとヒロ兄って呼んでるんだけどね。そのヒロ兄に頼んでみるよ。今ここからTV電話していいかな?」
「ええ?そんな急に?私髪もボサボサで…ヒロ兄さんにはまだあった事もないのに…」
「それは仕方ないじゃないか、緊急だから。」
「そうね、仕方ないわね。いいわ。」
僕は、ヒロ兄に電話した。すぐにつながった。流石は真面目な神職、ヒロ兄だ。
「どうしたマサ、こんな早くに?」
「ヒロ兄、緊急の用で電話した。いいかい?」
「ああ、いいが、そこ、病院か?」
「そう、NICUの病室の前。ヒロ兄、結婚証明書って、出せる?」
「結婚証明書?そりゃ教会の仕事だな。うちの神社では出した事ねえな。大体、誰の結婚証明書なんだ?」
「僕のだよ。今から奥さんになる人を紹介するから。」
そう言って、スマホのカメラを理美の方へ向けた。
「初めまして、ヒロ兄さん。三沢と言います…」
「ありゃ?会った事ないあんたまで俺の事をヒロ兄呼ばわりするのかい?」
「えっ、ああ、でも、私、マサさんからヒロ兄さんとしか聞いてなくて…」
そう突っ込まれて、理美の顔はすぐに真っ赤になり、受け答えもしどろもどろになってしまった。僕は慌ててカメラを自分の方へ向けた。
「これは僕が悪いんだよ。ヒロ兄の事を彼女にヒロ兄としか教えなかったんだから、許してやってよ。」
「許すも何もねえよ。俺は気に入っただけだ。おめえの嫁さんとは気が合いそうだ。で、俺は何をすればいい?緊急って言ってたけど」
僕は早速今の状況をかいつまんで話した。そして、今すぐに結婚証明書が必要だと伝えた。
「用件は分かった。しかし、今は朝のお務めの時間だ。30分程時間をくれ。」
「分かった、30分だね。じゃあその頃もう一度電話するよ。」
「ああ、30分後には用意しておくよ。」
電話を切った。
理美を見ると、まだ顔は赤かった。
「ごめんね、急に話させて…」
「いいのよ、苗字を言わなかった私が悪いんだから…」
「えっ?そう言えば、俺、ヒロ兄の苗字、覚えてない…」
「えっ?熊谷じゃないの?」
「ヒロ兄は違う。母方だし、母さんの旧姓なんだったっけ…」
「分かったわ。どっちにしても失礼な事になった事。」
「まあいいさ。ヒロ兄の事だから、今晩酒を飲めば忘れてしまうだろうから。でも、これで決まりだよ。本当にいいね。僕と結婚してくれるね?」
「もう頼んじゃったじゃないの。何よ今更、良いも悪いもないわ。良いに決まってる。」
最後の言葉を言い終わる直前に僕は理美にキスをした。
誓いのキスのつもりだった。
 
 

1秒ほどの可愛いキスの後、僕は急いで病院を出た。今日は会社に行けそうにないから会社支給のスマホを持ってこなければならなかったからだ。スマホから佐伯部長へメールを送り、どうしても今日休まねばならない事を事前に伝えなくてはならない。それをこの30分のうちに終わらせておき、結婚証明書を病院サイドが了承すれば、後は問題なく手術にも立ち会えるし、その後もずっと付き添える。仕事上は決して問題なくはないのだが、今はそれに構ってはいられない。僕は病院からタクシーに乗り、自分の部屋に戻って、長時間の立ち合いに耐えられるように、準備した。
まず、シャワーを浴びて昨夜の汗を流し、服を着替え、会社の携帯、充電器などをショルダーバッグに詰めた。部屋を出て、待たせておいたタクシーに乗り、病院に戻った。
 
 

NICUの前に行くと、理美の姿はなかった。
そこで、入口のビニール幕を押し上げ、中を覗いた。すると、慌てて看護士が走ってきた。さっき血縁者以外は入れないと、僕に言った看護士だ。
「熊谷さん、三沢さんはこっちです。さあ、早く!」
「えっ?いいんですか?」急展開に僕は戸惑ったが、言われるがままに看護士の後について中に入っていった。
「さっき、病院に仙台の神社から結婚証明書がFAXで届きました。だから大丈夫です。」
「そうですか…」流石はヒロ兄だ。今時FAX?アナログなヒロ兄らしい…
「権禰宜の坂田さんって、お知り合い?」
ああ、ヒロ兄の苗字は坂田だった。そう言えば、ヒロ兄の学生時代からの友達はみんなヒロ兄の事をさかっちって呼んでた。そんな事は今はいい…
「ええ、僕の従兄ですが、何か?」
「じゃあ、気安く注意出来ますよね?」
「ええ、まあ、坂田さんが何かしましたか?」
「結婚証明書ってね。多分巻物みたいになってるんだと思うんだけど、全部出力したらね、A4のコピー用紙が14枚にもなっちゃってて、流石にやり過ぎじゃない。」
A4、14枚…何してくれたんだ、ヒロ兄…
「分かりました。それは坂田さんに伝えておきます。でも、それで僕は中に入れるんですね?」
「そう、三沢さん、熊谷さんが着きましたよ。」
看護士がそう言い、ピンク色のカーテンを引いた。
直海ちゃんがベッドに寝ていた。三沢さんはその右側に座り、ナオちゃんの手を握っていた。
「ああ、まささん。」
「じゃあ、私はこれで」そう言って、看護士はいなくなった。僕は、看護士に礼を言った。それから僕は三沢さんの方を向き、「良かった、間に合って…ナオちゃんは、どうなるの?今はどんな状況?」と訊いた。
「さっき、小さな麻酔を打ったとこ。もう寝てるわ。手術室の準備ができたら、呼びに来る事になってる。」
「そう、じゃあ間もなくだね…」その言葉を言い終わらないうちに、
「三沢さん、じゃあ、行きましょうか。」という声がカーテンの向こうから聞こえ、看護士が二人、カーテンの中へと入ってきた。
二人は要領良くベッドを動かし、私たちはNICUを出て、エレベーターに乗った。手術室は3階にあった。僕と理美はベッドの両サイドを歩いた。
手術室のドアの前で理美はナオの握っていた手を離した。ナオちゃんは一人でドアの中に行った。
僕は、無事である事を祈った。
 
 

結局、手術は10時半から始まった。
ナオちゃんが手術室に入ると、僕らはやる事がない。
 
やる事が… ない!
 
会社へ連絡をするのを忘れていた!
 
今日は午前中、佐伯部長とのミーティングが予定されている。
朝7時からのミーティングも行けていない。
 
ヤバい…
 
会社のスマホを恐る恐る開くと、着信履歴が12件、ショートメールが8件も入っていた。
 
僕は、理美に「会社に電話してくる。」と言い、手術室の前を離れた。
しかし、このフロアは手術中の人を待つ人ばかりがいて、静かだ。
こんなところで電話はできない。
僕は、エレベーターで、1階へ行き、外に出て、佐伯部長の携帯まで電話した。
 
「熊谷君、君ねえ、どうなってるんだ!社会人のモラルも知らんのか!」
「部長、大変申し訳ありませんでした。実は、娘が急に手術する事になったものですから…」
「娘って?君は確か、独身ではなかったかね?」
「ええ、急に結婚しました。」
「いつだね?」
「今朝です。」
「君、僕をおちょくっているのか?何だ、その態度は!本当に許さんぞ!」
佐伯部長は電話を切った。
 
どうしよう?
 
色々な対応策が頭を巡った。
しかし、どれもちょっとうまくフィットしない…
 
一番フィットする方法は、一番最初に浮かんでいた。しかし、現状では難しいので、頭の中でいったんは削除した。しかし…
 
やっぱり、頼むしかないか…
 
僕は、笠松さんに電話した。
 
 

僕が課長になるまでは、実は僕は笠松さんとは仲が良かった。
相性がいいというヤツだろう。
それに僕と笠松さんは、佐伯さんの直系の部下を一番長く勤めている。
佐伯さんは、上に弱く、下に横柄な、中々嫌なタイプの上司なのだが、人間性は良く、人情味があり、涙もろい。つまり、上から自分が叩かれさえしなければ、中々いい人なのだ。
 
僕らは、足掛け6年、一緒の部署で過ごしており、飲み屋など気の置けない場所で、僕らは佐伯さんの事を「克さん」と呼ぶ。佐伯克馬という名前だからだ。佐伯さんは、笠松さんを「アンちゃん」と呼ぶ。笠=アンブレラだからだそうだ。そして二人は、僕の事をまさと呼ぶ。僕はどこでもまさだ。
 
今日は、本当にまずかった。全部、僕のミスと言っていい。しかし、今、僕が置かれている状況を佐伯さんが正確に理解すれば、きっと分かってくれるんじゃないかと思っている。
 
笠松さんは、電話に出なかった。
やはり、笠松さんにお願いするのは、難しいか…
僕は、電話を切った。
すると、すぐに電話が鳴った。笠松さんからだった。
「どうした、まさ?今日、何してんだ?」
「あれ、ご存じでしたか?」
「そりゃ、分かるよ。朝、会社来たら、佐伯さん、ムッチャ怒っててよお。あの人、怒鳴り散らす人じゃないじゃん。だから、自分の席で、コツコツ机叩いてよお。朝から精神衛生上、良くなかったんだぜえ。で、お前、どうしたんだ?」
「いや、ちょっと長くなる話ですけど、いいですか?」
「ああ、いいよ。」
「笠松さん、今、どこにいます?」
「外の喫煙所だよ。」笠松は、未だに煙草をやめられないヘビースモーカーだ。
「今日はいい天気だなあ。11月だってえのに、ポカポカして。仕事する気、失くしちゃうよな。」
「そんな時に申し訳ないのですが…」
「いいよ、何だよ、早く話せよ。」
 
僕は話した。
三沢理美と出会った事、彼女にはナオちゃんという娘がいる事。僕らは付き合う事にし、この夏はまるで家族のように過ごした事。そして、昨夜、ナオちゃんが救急車で運ばれ、今、手術している事。
 
「で、手術って、命に関わる事なのか?」
「まだ、分かりません。しかし、命が助かったとしても、後遺症が残るリスクがあるそうなんです。」
「で、お前は立ち会ってるという事か?」
「ええ。」
「大丈夫なのか、お前は今のところ、病院側の見立てだと赤の他人だろう?」
「いや、今朝、知り合いの神社に頼んで結婚証明書を出しました。きちんと立ち会うために。」
「かーーーー‼やるねえ!それでこそ、熊谷政信だ!やったねえ!」
「で、俺に佐伯さんに話して欲しいという訳か?」
「そうなんです。不躾で心苦しいんですが、お願いできないかと…」
「バカ野郎!何、他人行儀な事、言ってんだ!任せとけ、俺が佐伯さんの機嫌を直してやるよ。」
ホッとした。涙が、ポロっと、一筋、流れた。
「あっ、ありがとうございます。」やっと、一言だけ言えた。
これ以上話すと嗚咽してしまう。そんなカッコ悪い事、笠松さんにはバレたくない。
「いいよ、任せとけ。後、お前、こっから数日は会社来れねえだろう?やる事は、今日、落ち着いたら、メールを俺にくれ。俺が代わりにやっとくから。」
「ありが…とう…ございます…」もうダメだ。泣いてるのがバレてしまった…
「いいよ、お前はとにかく、そっちで頑張れ!家族を守るんだぞ!娘の命、お前が守れ!いいな!」
「わっ…分かりました。」
「熊谷。」
「はい。」
「結婚、おめでとう。」
「ありがとうございます。」
 
電話を切った。
僕は、涙を拭いて、手術室へと向かった。
 
 

手術室の前の待合のスペースに戻ると、理美の姿が見えなかった。
ここには、中央手術室の他に大小5つの手術室があり、待合スペースをコの字に取り囲んでいる。
ナオちゃんの手術は、中央で行われており、待合の正面にドアがある。
待合には、真ん中に大きな正方形のペパーミントグリーンのスツールがあり、20人はいっぺんに座れそうだ。
その気になれば、そこに大人なら三人は横になる事ができる。
さっきは、このスツールに二人で座った。しかし、理美の姿はなかった。
辺りを見回すと、理美を見つけた。
壁伝いの長椅子にいた。
腕をまるで自分を抱き締めるように組み、寝ていた。
無理もない。疲れただろう。
気がついた。
理美は、ルームウェアのままだった。上着を持ってないようだ。
寒かったろう。
 
僕は、激しく後悔した。
自分はいったん部屋に戻り、ザーッとながらシャワーを浴び、服を着替えてきた。
寒いかも、と思って、少し厚めのジャケットを羽織った。
自分の事は分かった。しかし、理美の事までは気遣えなかった。
一人で暮らしてきた配慮のなさだ。
 
ごめん。
 
僕は、ジャケットを脱ぎ、彼女にかけた。
そして、理美の横に座った。
すぐ横に座ると、理美の寝息が聞こえてきた。
不思議だ。本当にすぐ横に座らないと、寝息は聞こえない。
理美の寝息のリズムは規則正しく、その穏やかなリズムが僕にも眠気を誘った。
 
理美の髪のいい匂いがした。
その香りの中で、僕も眠った。
 
 

着信のバイブ音に起こされた。
ズボンのポケットで唸った。
 
会社のスマホを取り出すと、佐伯部長からのショートメールが入っていた。
 
アンちゃんから聞いた。仕事はいい。気にするな。とにかく、そっちで頑張れ。
様子が分かったら、連絡をくれ。
 
と書いてあった。
 
佐伯さん… 克さん…
 
ありがたい気持ちでいっぱいになった。
 
それから、数分も経たないうちに、ひっきりなしにショートメールが届き始めた。
 
笠松さん、大島さん、君塚君、佐藤君。
 
笠松さんは、
12月までの予算達成は俺に任せろ。しかし、1月以降は知らん。
と書いてくれていた。
 
なんだ、ネタは仕込んで置いてくれてるのか…
正直、ちょっとホッとした。
 
その後、三部の部員全員からメールが届いた。
笠松さんのところの大竹君、三島君、米倉さん。
大島さんのところの古橋君、八坂君、山本君。
君塚君のところの前田君と大石さん。
佐藤君のところの藤田君、木曽川君、坂元さん。
 
みんな、仕事は何とかするから、熊谷さんはそっちで頑張ってだの、結婚、おめでとうだのと書いてくれていた。
 
心の線が緩んだ。
 
慌てるぐらいに、あっさりと泣いた。
涙が止まらなかった。
 
カッコ悪いのと、理美を起こしたくないのとで、僕はトイレに向かった。
顔を洗おう。
そして、ナオちゃんのお父さんとして、頑張るように気を引き締め直そう。
 
でも、まずは泣くだけ、泣かせてもらおう。
 
 

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