続『不適切にもほどがある!』と「テレビ」の問題
さて、昨日に引き続き『不適切にもほどがある!』の話だ。
昨日の記事をざっくりまとめると、ゼロ年代初頭(『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』)のクドカンの批判力は、90年代的な自意識と心理主義とスノビズムに対して、マイルドヤンキー的な「ジモト」の閉じた時空間を対置したところにあった。これが、先鋭化してコミュニティを自己解体し、ばらばらの「個」の連鎖になっててしまったものが『マンハッタンラブストーリー』であり、その反動で浅草という古い街の「大家族」に回帰したのが『