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問題そのものをベタに語るほうが問題についてのコミュニケーションをメタ的に語るより実は高度(なのでメタに逃げたものばかり書いているとバカになる)という話

今日はランチの後の息抜きに、友人と少しFacebook Messengerで雑談した。正確に言うと雑談ではなく、来年からはじまるちょっと大きな仕事のために先行メディアの事情をヒアリングしたのだけど、思った以上に厳しく、これは気合を入れてやらないといけないな……と気を引き締めた。

しかしメディアの実態というのは表面だけ観ていてもわからないもので、一見制作費に苦しんでいそうなあのメディアが実は大企業からの受注仕事で(制作会社としては)ウハウハだったり、逆に見るからに金のかかった感じでやっているあのメディアがまったくマネタイズの目処が経っていなかったり、比較的景気のいいほうだと思われているあの中堅出版社が通常出版に並行して自費出版事業をガンガンやってようやくトントン……だとか、なるほど、そういうビジネスモデルなのか、とか、以外とこの辺のコンテンツは数字が取れる/取れないのかとか、勉強になることばかりだったのだけど、今日の本題はそこではない。と、いうか今僕が書いた話を「もっと知りたい」と思ったあなたは要注意だ。

ちょっと意地悪な入りかたをしてしまったけれど、僕がこれから書くのはこういったメタ的な「メディアの話」ばかり話したり書いたりしていると、どんどんバカになる……というか、コンテンツそのものを生む(ためにきちんと「考える」力)が弱くなってしまうぞ、という話だ。なぜならば、僕は実際にこういう仕事をしているので嫌でも考えないといけないところがあるのだけど、そうでもない一般読者や若い書き手(未満)の人たちにこういう話が妙に受けがいいのが昔からちょっと引っかかっているのだ。

例によって結論を先に書いてしまおう。「状況」を語るメタ言説、つまり「問題についてのコミュニケーション」は、一見その問題の成立条件を問うもので、より深いレベルで問題を考えているように「見えやすい」が、実はそうなっていないことが多い。それは「問題」の成立条件をさかのぼって考える思考はかなり高度で、そのためほとんどの人は知力が追いつかなくて業界の人間関係とか、政治的なポジショントークで誤魔化してしまう。

そして読者の思考も、特にSNS以降可視化されやすくなったこうした「人間関係」や「タイムラインの潮目」についての言説のほうが論理的に単純で知識もいらないのでとっつきやすい。なので、別に訴えたいことや書きたいことがあるわけでもなく、単に知的に観られたいだけのすごくつまらない人たちがとりあえずそれっぽいことを書く/口にするにはうってつけなのだ。

気持ちはわかる。僕も20代や30代のはじめの頃は自覚なく、メタ言説に逃げてしまっていたことが多かった。ついでに言えば、当時は文壇や論壇の「状況」を語ることが、社会のために必要なことだと思っていた。でも、震災から少し経ったくらいで考え方が変わった。もちろん「状況」を語ることが必要な場面もあるのだけど、それを「逃げ」にしている書き手や読者が多すぎることの弊害のほうが大きいと感じることが多くなった。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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