見出し画像

スティグマ

自分の嫌なとこがある。
それは、とにかく人の目を気にすることだ。逆に言えばこれは、人が見てなければどうでもいいと思っていることだ。
昔、これについて上司に指摘されたことがある。ミスをして、それを隠す前に上司をちら、と見た。その視線に気づかれ、自分がなにをしようとしたか注意された。ミスったな、と思った。気づかれなければよかったのに、と思った。
気づかれさえしなければ、自分のミスなんてゴミ箱に入り、焼却炉で燃やされてなかったことになってしまうのに。
でも、今思えば、気づかれなければいいというわけではないんだ、きっと。
人前でしかゴミ拾いをせず、ましてや誰かが来るタイミングを密かに測りながら、わざわざ目に映るように仕事や掃除なんかをするなんて、なんていうか浅ましいと思う。(きっとこれは、評価されたいとか承認欲求とかも関わってくる。僕の根底にあるものだと思う。いつか君に理解してほしいと思う)
ただ、浅ましいと分かっていながら、やっぱり気づかれなければよかったのに、と思っている自分もいる。
自分のことなのに、なぜか意見が分かれてしまう。この葛藤は、なんなんだろうか。

でも、きっとこれには理由があった。
自分のことを否定されたくないのだ。自分のやったことを、否定されたくないのだ。だからわざと印象的に映るように、目に入るように、自分の中で考えた劇的な演出を作り上げようとする。やった感、を出す。
これは純粋なものではない。ただ、どうであれやっているんだからよかろうとも思う。
だけれども、やっぱり純粋なものには勝てないのだ。純粋な善意や好意を妬ましく思ってしまうのだ。そんな奴なんているわけがないと粗探しをして、その粗を噛みしめるようにしてやっとこさ自分に存在価値を見出せる。文章にしてみると自分がどうしようもないやつだと気づいてしまう。
なんていうか、ほんとうにどうしようもない。利己的な自分に嫌気が差す。治したいはずなのに、やってしまう自分に嫌気が差す。
ああ、否定されたくない。否定されるかどうかなんて、分からないくせに。人間関係なんてなにもかにも、お互いの意見があってそれをどうするか、どこで折り合いをつけるか、すればいいのに。自分の中で勝手に答えを出して、だめだと思って、勝手に落ち込んで、人を下に見て。

せめて堂々とすればいいと思った。
自分はこう思って、こうしていると言えればよかった。
だけれどもちっぽけな自分の自尊心かなんだか分からないものが、それをしようとしなかった。また、相手のことを分かった気になって、これをしたらまずいと思い込んで、またはまずいと分かっていて、わざとそれを隠すようにして生きている。

アドラー心理学では、対等であるべきと言っていた。
下に見たり上に見たりせずに、対等であるべきだと。評価ではなく感謝をするべきだと。自分もそうなりたいと思う。今の自分は好きではないが、そんな自分がいたらきっとわりと好きだと思う。

いつか自分のことを好きになれるときがくるのだろうか。
自分本位だとは思うが、自分のことが好きかといわれると、もう一人いたとすると、あまり好きにはなれていないかもしれない。肝心なところで、いまいち信用ならないやつな気がする。そして他の人からそう思われているのかと思うと、なんだかそれはひどく悲しい。

自分の嫌なところを見つめるのは、ひどく辛いことだ。
でもそれが必要だと感じた。今すぐどうにかならないことかもしれないけれど、せめて未来の自分に、このスティグマを抱えている自分のことを伝えたかった。そんな自分を覚えていてほしかった。
願わくば、こんなことで悩んでこいつは馬鹿みたいだな、と嘲笑ってほしい。
このタイムカプセルを開けたときに、また子供だった自分へ、ほんの少しの懐かしさと嫌悪感を抱いてくれることを信じて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?